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【大谷能生 ニッポンの音楽教育150年間のナゾ】とりあえずの終わりに(2) (1/2ページ)

(前回から続く)

16)国歌としての初代「君が代」は、明治2~3年に、英国人の雇われ軍楽隊長が、薩摩藩士の唄う「蓬莱山」の一節を採譜することで作ったものだった……と伝えられているけど、実際に見てみると(譜面現存)ほとんど讃美歌みたいな曲調で、おそらくこれは邦楽をドレミに落とし込めなかった楽長が適当にこしらえた曲のように思われる。歌詞とメロディーも当然ちぐはぐで、明治10年ぐらいから改定の要望が出始め、まずは海軍と宮内省が組んで新作を制作・発表した。

17)その後を追っかけるようにして、音楽取調掛をスタートさせた文部省も独自に国歌の制作に入る。ヨーロッパ各国の国歌を集めて曲と歌詞を検討したりとか、かなり丁寧に作業を進め、「明治を代表する歌」を各種試作するが、結果として「国歌」は海軍+宮内省のものが採用された。これが現在の「君が代」です。

18)で、その現行の「君が代」なんですが、これはドレミで書かれてはいるけれど、西欧音楽のキモともいうべき「機能和声」感が乏しいモーダルな曲なんですね。さらにこの曲には、軍隊を行進させるために必要な拍動にも欠けている。率直に言って、この曲を基盤にして、そこから最終的にベートーヴェンの交響曲なんかにまでつながる西欧音楽の体系的な勉強を始めることは出来ない曲なのです。これから学ぶべき「洋楽」のモデルにはならない曲で、だから文部省は実際は、もっとはっきりとドレミのパワーに基づいた「国歌」を作って施行したかったはずなのでした。

19)ところが彼らは(おそらく)妥協して、国歌は「君が代」に譲り、その替わり、学校教育の音楽を、完全に西欧音楽の勉強に一本化することを画策し、成功させます。メーソンらが初めて披露した唱歌教育の発表会において、もうすでに「ピアノの三回鳴らし」、つまり、儀式の時に生徒たちを「起立・礼・着席」させる、ドミナントートニックの和声のパワーが採用され、披露されている。この西欧音楽の、雅楽でも、三味線音楽でも不可能な、「みんなを揃って一斉に動かす音楽の力」が、近代国家としての明治日本が欲しかったものである。文部省は唱歌教育でもって、音楽でもってみんなで「起立・礼・着席」することが「自然」になるような環境を生み出したのでした。