【松平定知の“龍馬”伝】薩摩藩!?見廻組!?最大の謎「誰が殺ったか」

2010.01.15

 今回は、龍馬の「謎」について、です。

 歴史上の人物には大なり小なり「謎」がつきまといます。現代に生きる私たちは、その時、その現場にいられないのですから、当然のことです。龍馬も例外ではありません。

 例えば、いま、薩長連合(同盟)だけとっても、慶応2(1866)年1月上旬、桂小五郎はじめ長州藩の代表が薩摩藩伏見屋敷に入ってさあ仕上げの談判、と思ったその席に龍馬が天候不良を理由に遅刻したのはなぜだったか(その前の年の閏5月に下関での薩長会談を西郷がすっぽかした後の会談ですから成約のためには極めて重要な会談だったのです。薩長双方の儀礼的、虚礼的な「ご挨拶」一切なしの、自分が着いたらいきなり実質的会談に入れるようにする為のこれは龍馬の「確信犯的遅刻」と指摘する向きもあります)とか。

 また、薩長連合成立の決定的要素になったバーター取り引きにしてからも、7300挺もの銃をあんなに短期間にグラバーから調達出来たのはなぜだったか、とか、あるのですが、ここでは紙幅の都合上「暗殺」に限定します。

 最大の謎は「誰が殺ったのか」。まあ、実行犯は「見廻組」だったとして、じゃあ、それは彼らの単独犯行だったのか、ということです。かつてNHK「その時歴史が動いた」では、視聴者参加番組という形でこのことを取り上げましたが、このときはなんと「薩摩藩黒幕説」が有力、という結果が出ました。

 もちろん、かつての寺田屋事件で龍馬が逃げ込んだ場所は薩摩藩邸だったではないか、そこで薩摩藩は龍馬をあんなに大事に介抱したではないか、加之(しかのみならず)、その傷が一段落した時、お龍さんへの感謝と慰安のための(新婚)旅行をセットしたのは他ならぬあの西郷さんではなかったか、とか、反論も当然ありました。

 実際に薩摩藩と見廻組はお互いにどう事前の細かい連絡を取り合ったのか、あの日、龍馬と一緒にいた自分たちのシンパの中岡慎太郎をどうするつもりだったのか、とか、まだ解明できていないことが多いのです。勿論、軽々に結論は出ません。でも、大政奉還以後の新しい日本をどういう「政体」にしていくかの路線の違いは、彼らを「そういう仲」にしたという「言い分」もそれなりに理解できないことではないのです。

 歴史に「もしも」は不毛なこと、とよく言われますが、私はそうは思いません。それなりのエビデンスをキチンと踏まえた上での自由な想像の「もしも」は、歴史をよりご自分に引き寄せることができると思うからです。

 さあ皆さんはこの「謎」、どうお解きになりますか?(アナウンサー、ANA歴史大使)

龍馬
 

注目情報(PR)