【自伝「ロザンナ」】ふるさと 「七つの子」覚えて17歳で日本へ

2010.02.02


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 デュオ「ヒデとロザンナ」が結成されたのは、今から42年前の1968年、ヒデを亡くして(享年47歳)ちょうど20年がたちました。いろいろありましたが、3人の子供と4人の孫に恵まれ、平穏な生活を送っています。

 顔のパーツも派手だし、日本語の読み書きも不得手なイタリア人の私が、歌謡界を中心に、日本で生きてきた日々をつづりながら、今も愛し続けるヒデを偲びたいと思います。

 私が生まれたのはイタリアの北部、ミラノとベネチアの中間。アルプスに囲まれた美しい町、スキオでした。ママのマリアは23歳で父のジョバンニと結婚、私を生みました。兄弟は15年前に亡くなった兄、そして姉の2人は現在もイタリアで健在です。

 父は瞳が深いブルーの、昔風の二枚目でしたが第二次大戦前のアルバニアとの戦争に出兵、銃弾を右腕に受けて重傷を負いました。命びろいをして帰還しましたが、収入のいい職にはつけません。

 でも、左手だけでギターを弾きながら、恋のセレナーデを歌っていたのを聴いたことがあります。私の「音感」は、多分、父譲りでしょう。地元の音楽学校に通ったり、ジュークボックスの音楽に合わせてダンスを踊る、お茶目な娘でした。

 グレース・ケリーに似たプロポーションの持ち主だった母は生活力があり、喫茶店を経営するなど社交的でした。私は土曜と日曜はビアホールなどのステージに立ち、カンツォーネを歌っていました。やがて母は事業を広げすぎて財産を失い、家族は賃貸のアパート暮らしをしていました。

 そんなころ、東京で演奏活動をしていた叔父から手紙が届きました。ピアノ弾きの叔父はカサノバ・セッティというバンドを結成、マスターでした。

 当時、叔父のバンドは港区赤坂のナイトクラブ「月世界」に出演中。メンバーを何度か代えていましたが「女性ボーカルを入れよう」ということになり、私の歌を聴いたことのある叔父が推薦してくれたのです。

 それは東京オリンピック(1964年)の3年後67年秋のことでした。

 マルコ・ポーロの「東方見聞録」も読んだことのない私は、日本が地球のどこにあるのかも分かりません。叔父は日本の童謡「七つの子」のカセットテープとローマ字で書いた歌詞をよこし、「この歌は日本人に受けるから、絶対に日本語で暗記してくるように」と、付け加えてありました。私はこの歌を十分レッスンして、故郷を後にしました。

 当時の飛行機は南回りしかなく、5、6カ所ほど空港に寄り道。羽田まで30時間ほどかかる長旅でした。心細い17歳の少女は不安と戦いながら、迎えに来た叔父と6000マイルも飛んで初めて日本の地を踏んだのでした。

 本当は半年の約束だったんですよ。もちろん、ヒデとの「愛の奇跡」が待っているなんて、想像できるはずもありませんでした。

 ■ロザンナ 1950年7月3日生まれ、59歳。1968年にヒデ(出門英)と「ヒデとロザンナ」を結成、同年にデビュー曲「愛の奇跡」がミリオンセラーの大ヒット。2人は74年に結婚。ヒデは90年6月17日、がんで他界。ロザンナはヒデとの愛をつづった「泣かない」(講談社)を執筆。上映中の「アンを探して」(加・日合作)に初主演。イタリア家庭料理研究家。二男一女で長男・士門は画家、音楽家、二男・来門はミュージシャン、長女・万梨音はモデル

 

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