スイフティすぐやる上に切れる奴 菅原正二

2011.04.27


菅原正二(写真提供=ステレオサウンド)【拡大】

 「一昨日の地震はこたえた。レコードやなんかを1カ月かけて片付け終わったと思ったら振り出しに戻ったよ。土壁が落ちたからね。梁にもひびが入ったし、時間は短かったけど、前よりひどかった」

 4月7日に東北で大きな余震があった2日後に一関のジャズ喫茶『ベイシー』の菅原さんに電話した。『ベイシー』は菅原家代々伝わる古文書や銃や貴重品を納めた文庫蔵だった。そこを巨大なスピーカーを置くジャズ喫茶に改装して40年、菅原さんはここを拠点に、渡辺貞夫、坂田明、ケイコ・リー、マリーン等の年数回の恒例ライヴを含む店の経営と、ジャズとオーディオ評論、ジャズメンの写真撮影など手広く活躍している。今年のライヴは震災でとりあえずは延期。ぼくもここで永六輔さんのトークショーや、立川談志、春風亭小朝の落語会などをやらせてもらった。

 初めて菅原さんに会ったのは1978年夏の『タモリ=所ジョージ・全国冗談コンサート北から南まで』の仙台公演の打ち上げだった。菅原文太系列の一見やくざチックな容貌で、喋るとジャズメン用語が氾濫する男の正体は、知り合いだと思い紹介してくれなかったタモリから後で聞いて判明した。

 60年代は、後半フォーク・ブームになるまでは、ラジオで大橋巨泉司会の『大学対抗バンド合戦』(TBS)等があって、各大学でジャズを筆頭に軽音楽(ハワイアン、カントリー&ウェスタン等)バンドの大ブームだった。中でも花形はデューク・エリントンやカウント・ベイシー楽団風のジャズのフルオーケストラだ。慶応大にはライトミュージック、早稲田大にはハイソサエティオーケストラ(通称ハイソ)があり、この2バンドがしのぎを削っていた。ここからプロに転向したジャズ・ミュージシャンは数多い。このハイソ全盛期のドラムが、我らのショーちゃんこと菅原正二さんだった。

 菅原さんは19歳のとき肺結核で1年療養し、早大文学部に3浪で入学。当時、3歳下のタモリは早大モダン・ジャズ研究会に在籍しトランペッターを目指していたが、すでに司会で精彩を放っていた。後にCBSソニーで渡辺貞夫や日野皓正などのアルバムのプロデューサーとして名を馳せる伊藤八十八は、同大学のニューオルリンズジャズクラブに所属していた。「タモリや八十八に会えたのも三浪したお陰だ」と言う。67年3月のハイソのアメリカ遠征は、日本のビッグ・バンドの初渡米であった。4年生の時、ハイソの先輩チャーリー石黒率いる東京パンチョスのドラムを兼任した。当時、月に23日間が赤坂のキャバレーで、週3日がテレビのレギュラーで森進一や布施明の歌伴(歌の伴奏)の仕事。大卒初任給が2万円の頃、月50万は稼いでいた。この生活は体の都合で中断。大学も中退して故郷に帰り再び1年間の療養生活を送った。このとき、ジャズ喫茶『ベイシー』経営を思い立った。

 開店した翌年、2度目の来日になるカウント・ベイシーに声をかけ、ツアーの全行程に同行。以来来日すればツアー同行は当たり前になり、80年にはベイシーの『ベイシー』来店が実現した。ベイシーが菅原さんに付けたニックネームがある。すぐに実行に移すこの男を初めはスピーディにしたが気に入らず、SWIFT(素早い)にYを付けた造語、スイフティに決めるや「いい名だ」と一人悦に行っていたらしい。『ベイシー』が気に入り晩年一関に居を構えた色川武大さんもカウント・ベイシーも、もちろんぼくらもこの店以上にSWIFT(頭の切れる)な菅原さんが大好きなのだ。(演出家・高平哲郎)

 ■すがわら・しょうじ 1942年5月23日岩手県一関市生まれ。ジャズ喫茶ベイシー店主、オーディオ評論家、写真家。早稲田大学在学中、ハイソサエティオーケストラのバンドリーダーとして活動。1970年に一関市にジャズ喫茶『ベイシー』を開店。主著に『ぼくとジムランの酒とバラの日々』(駒草出版)『聴く鏡』(SS選書)等多数。

 ■たかひら・てつお 1947年1月3日、64歳、東京生まれ。一橋大学社会学部を卒業後、広告代理店、編集者を経てフリーに。以後、テレビの構成や芝居・ミュージカルの翻訳演出等を手掛ける。現在「笑っていいとも」「ごきげんよう」に参加。著書に「スタンダップコミックの勉強」「今夜は最高な日々」など。

 

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