宮沢りえ“離婚”の裏に波乱半生…親を知らずに育った過去

2012.05.10


男に頼らない生き方を貫く宮沢りえ【拡大】

 女優、宮沢りえ(39)の生い立ちからヘアヌードブーム、度重なるスキャンダルまで追ってきた芸能評論家の肥留間正明氏が、りえが離婚に至るまでの半生を綴った。

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 りえが離婚交渉をしているという一報を聞いたとき驚きはなかった。彼女は一人で生きてゆくことができる強い人間。男の力を借りない人生を生まれたときから送ってきているのだ。

 りえが荷物をたたんで娘を連れて家を出たのは、今年2月のこと。亭主がハワイから帰ると、家はもぬけの殻。“晴天のへきれき”だった。

 この6歳年上の元プロサーファーと結婚したのは3年前。妊娠6カ月の“でき婚”だった。結婚当時から子供の話はするが、マスコミの前で亭主の話は一度もしない。いまだに本名さえ報じられていない。裏を返せばそれだけ存在感が薄かった。

 亭主が拠点とするハワイと日本との“別居生活”は文字通りすれ違い。現実的には、りえの収入で支えていた。りえまでハワイで暮らせれば、仕事がなくなり生活が成り立たない。亭主が日本で暮らし“主夫”に徹すれば離婚は避けられた。

 りえは幼いころから一人で生きる術を身につけてきた。

 “一卵性母子”といわれた母親の“りえママ”は、六本木でクラブホステスをしていたとき、オランダ人と恋に落ちた。当時はほっそりと可愛い女のコとして評判で、りえを授かった後、産み落としたりえを残して単身オランダに渡る。

 りえはタクシー運転手だった祖父の男の子と一緒に兄弟のように育てられた。人生で一番幸せな時期だったという。

 オランダの家族との折り合いが悪くなったりえママは離婚して帰国し、りえを引き取る。東京・大泉学園近くのアパートに居を構え、ここで可愛いりえを見た友人のススメで、モデルの仕事をはじめる。

 当時のライバルは同学年の後藤久美子だった。彼女はゴクミの二番手としてゴクミが蹴った仕事をこなしながらモデルとしてステップアップ。映画「ぼくらの七日間戦争」や「三井のリハウス」のCMを通じて名前が知れ渡った。

 「ステージママの操り人形」といった批判をよそに、りえブームに火がついたのも事実。“ふんどしカレンダー”が話題を呼び、17歳の時に撮影したといわれる篠山紀信氏によるヘアヌード写真集『Santa Fe』(サンタフェ)は150万部のベストセラーに。当時、ビートたけしは、「娘をヌードにさせないのが親なのに考えられない」と毒づいたほど。

 関脇だった貴花田(現・貴乃花親方)との婚約、その2カ月後の婚約解消。りえママが仕事の続行を主張したのが原因と言われている。

 さらに、自殺未遂や拒食症など恋愛騒動を乗り越え、薄幸を一人で生き抜いてきたりえ。離婚はショックでも大した悲しみでもない。そこに、たくましい大物女優の片鱗を見る。

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