『ビックリハウス』 分野を一切問わぬ投稿メディア

2015.12.02


「ビックリハウス」1982年7月号(アタマトテ・インターナショナル提供)【拡大】

 1970年代後半から80年代前半、パロディーを主に若者向け雑誌として一世を風靡(ふうび)したのが「ビックリハウス」。創刊編集長の萩原朔美や「ビックリハウスSUPER」編集長の榎本了壱らの中では、一般には“花編”として各マスコミにもよく露出していた高橋章子の丸顔がよく知られているかもしれない。

 版元のパルコ出版が当時上げ潮だった西武セゾングループの一翼を担っていたこともあり、若者に影響力のあるメディアだった。往時の西武の勢いは、同誌編集室があったという70年代の渋谷公園通りを思い出すと分かりやすい。駅から坂に入ると、小劇場「ジァン・ジァン」など小洒落れたスペースが点々とあり、その奥にPARCOのロゴがどーんと見えてくる。

 中の西武劇場では細川俊之と木の実ナナによる洗練されたミュージカル「ショーガール」が折々上演されている。通りは、夜になるとヨーロッパの街並みのような街灯がキラキラとまぶしかった。筆者は生まれも育ちも東京だが、10代の頃に、初めて足を踏み入れ唯一「アガッてしまった街」が公園通りだった。

 同誌では読者から毎月驚いたことを募る「ビックラゲーション」や、糸井重里主宰による投稿企画「ヘンタイよいこ新聞」、誰でも獲得票数さえ多ければ上位ランキングされる「ノンセクション人気投票」などの企画が話題を呼んだ。

 75年7月号の人気投票結果は、1位露口茂(俳優)、2位渡部◯◯(中央電気通信学園・学生)、3位広川太一郎(DJ)といった具合。当時は有名人と一般人が並列でメディアに登場すること自体画期的だった。

 他にも創作からコント、パロディーまで分野を一切問わぬ文芸賞「エンピツ賞」は、10年間20回にもおよび、放送作家の鮫肌文殊などを輩出した。俳優の渡辺いっけい、タレントの清水ミチコ、消しゴム版画のナンシー関も無名時代、同誌に多く投稿していた。

 また「手を上げて渡る世間に鬼はなし」「長崎から船に酔って神戸で吐いた」など言い伝えや慣れ親しんだフレーズを逆手にとった「御教訓カレンダー」は、終刊後も今に続き、カレンダーとして毎年新作が発売されている。

 「欽ドン!」の「母と子の会話」から同誌、そして週刊文春の「萬流コピー塾」を経て「ケータイ大喜利」に至るまで投稿メディアは時代に応じさまざま登場した。筆者自身は投稿体質がないというか、「ビックリハウス」については遠くから眺めるような割と冷めた眼で見ていたように記憶していた。

 しかし今回再見したら、表紙で「ああこの号は買っていたな」と確実に思い出す一冊があった。中を開くと、第1回「エンピツ賞」受賞作発表号。やっぱりなにか表現とかしたかったんだろうな、と多少恥ずかしくもあり、懐かしい思いにも駆られる。

 そういえば終刊号表紙のキャッチが今の時代を予見しているようだ。「いつまでも、あると思うな、親と本」。コワいコワい。 =敬称略 (矢吹博志)

 ■「ビックリハウス」 発行:パルコ出版 創刊号:1975年1月号 150円 終刊号:1985年11月号 530円

 

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