《89年「リターン・トゥ・マイセルフ」がシングル、アルバムともオリコンで初登場1位を記録したことをピークに、歌番組などテレビでは徐々に姿を見せなくなる》
テレビというのは、何も受け答えをすることがなくても話をしなければならない場面もあります。MC(司会)の方はそれに命をかけているし、私が出ていくのは失礼だな、と思うようになりました。
《再び、歌と作品づくりに専念した時期に、海外との合弁レコード会社に移籍したことがあった。94年にはヨーロッパ盤や東南アジア盤をリリース》
それまでLAでレコーディングした経験はあったんですが、ヨーロッパツアーが実現できて、すごく有意義でした。オランダ、ドイツ、スイス…ライブは大いに盛り上がりました。
ヨーロッパでは、ビート感のあるロック、アジアではシンプルで叙情的なバラードが好まれました。日本ではロックをベースとしたメロディアスで壮大なサウンド…。ずっと続けたかったんですが、1年で全部を作ることはとてもじゃないけどできないと、パニックになってしまいました。それで、ライブ活動を一時中断したんです。
体力が追いつかなかったことに加えて、これは…初めてお話しするんですが、ちょうどそのころ、両親が倒れてしまったこともあり、ベースを日本に戻しました。
《アルバム製作は続けたが、次にファンの目の前に姿を見せたのは、2002年。9年ぶりのライブだった》
03年に20周年を迎え、焦点が定まってきました。ちょっと抑さえたウィスパー・ボイスで歌っていた時期もありましたが、やっぱり自分が求められているもの、残してきたものは、何かが分かり、ハードに戻しました。
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ZAKZAK 2007/04/13