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「時代の刺激剤」一貫した姿勢…忌野清志郎さん壮絶死

マスコミが伝えなかった素顔

 がん性リンパ管症のため2日に58歳で死去した歌手、忌野清志郎さん。連休中はNHKニュースから全国紙の社会面まで、日本のロック史を切り開いたこの男の偉業を称えた。同じ1951年4月生まれの音楽評論家、富澤一誠氏が、マスコミではあまり伝えられなかった清志郎さんの素顔を含めた“ロックな生涯”を振り返った。

 人と同じことをやらないぞ−という姿勢を貫いた反骨精神で、日本のロックビジネスを確立した巨人だった。

【後のBOφWYやX JAPANに道】

 矢沢の永ちゃんに続く形で登場した清志郎は、1980年代に巨大ビジネス化する日本のロックの原型をつくった。

 70年代後半、ニューミュージックが全盛で、ロックは地味だった。そこへ、RCサクセション(以下、RC)のボーカルとして登場した清志郎は、どぎついメークと派手な衣装でロックをエンターテインメントに高めた。彼が出てこなければ、BOφWYやブルーハーツ、X JAPAN、GLAYといったメガロックシーンがあったどうか疑問だ。

 フォーク時代から取材させていただいてきたが、素顔は寡黙でマジメ、人間的な優しさにあふれていた。

 RCが初期に歌った「ぼくの好きな先生」に彼の気持ちがあふれている。都立日野高校時代に劣等生だった清志郎の気持ちを唯一、分かってくれ、「好きなことをやっていいんだよ」と後押ししてくれた実在する美術教師の歌だった。

 一方で、学校や社会など既成の枠から、はみだせない人々に「本当にそれでいいのか」と疑問を投げかけ正義感を燃やし続けてきた。

 その清志郎の原点ともいえる1971年秋のライブをよく覚えている。渋谷の東横ホールで開かれた「唄の市」。RCはまだ3人組のフォークグループだった。共演したのが後にギタリストとして合流するチャボこと仲井戸麗市がいた古井戸、ケメ(佐藤公彦)、泉谷しげる、吉田拓郎、小室等と六文銭といったすごいメンバーだった。

 すでに、RCは“ハードフォーク”といっていい激しさで、ベースもジャズっぽかった。

 とくに清志郎、チャボ、ケメといった面々はルックスがかわいくてフォーク界のアイドル的存在だった。

 そのまま行けば、アイドルとして通用したが、清志郎はあえて背を向け、売れそうな曲をつくらなくなった。後に“不遇時代”といわれる期間が70年代後半まで5年近く続いた。

 この間、実は異才を発揮して、井上陽水のアルバム「氷の世界」に共作で詞を提供しながら、印税で生活をしていた。

 「オレはこんなもんじゃない」と牙をむいていた。

 フォークがニューミュージックと名を変えたころ、そろそろ自分の出番とばかり再びロックバンドとしてRCが復活を遂げた。80年代に入るとライブのパフォーマンスが大いにウケて、“キング・オブ”と呼ばれるようになっていた。

【常に“不良”であり続け】

 「ロックは時代の刺激剤たるべき」というのが清志郎の一貫した姿勢だったと思う。常に新しいことにチャレンジし続け、予定調和的なことを嫌った。RCが次第に大きい存在になってくると、所属事務所やレコード会社との思惑が離れてきた。ビジネスとしては、同じことの焼き直しの方が売れるが、それをよしとせず91年に活動を中止した。

 ソロになってからも原発問題を扱った歌詞や、パンク調で歌った「君が代」などが、発売中止や放送中止になるなど“不良”であり続けた。

 06年7月に喉頭がんであることを発表。昨年2月に日本武道館で「完全復活祭」を開いた。

 あれだけのステージは、完全に復活していないとできない。当然、快方に向かっていると思っていたし、転移したとしても克服してくれると信じていた。

 亡くなってからのファンの反応、マスコミの扱いの大きさを見ても、清志郎の神話はこれからまた始まっていくのだと思っている。

 ■富澤一誠(とみさわ・いっせい) 1951年、長野県須坂市生まれ。東京大学に入学、歌手を目指して中退するが挫折し71年から音楽評論活動に専念。92年、プロデュースしたアルバム「ASIAN VOICES」で第34回日本レコード大賞企画賞。今年4月、歌手、永井龍雲のシングル「夢は眠っていないか?」で作詞家デビューを飾った。

ZAKZAK 2009/05/07

忌野清志郎

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