15歳のころ「この道しかないんだな」
今年、芸能生活70周年を迎えます。舞台に上がっているからでしょうか、ふだんは年齢のことは考えていません。周りから「もう70周年なのねえ」って言われて「あっ、そんなに時がたったんだな」と気がつく。私のファンはわかっていますけど、若い人には「3歳で舞台を踏んだ」と言わないと、80歳過ぎだと思ってしまう方もいるかもしれませんね、ふふ。
6月に70周年記念曲「人は堂々」(キングレコード)を出しました。作詞の杉紀彦先生が病院から退院されたばかりなのに作ってくださった。そんな経緯があるだけに、苦労とか乗り越えて前向きに生きる内容がひしひしと伝わる。私にとっても、人生の応援歌になる記念曲です。
10月14日には、東京厚生年金会館で「二葉百合子 ひとすじの道」を開きます。最後の大規模コンサートになるかもしれません。私が浪曲を語り(坂本)冬美、(藤)あや子、(石川)さゆり、(原田)悠里ら「二葉組」の娘が若い歌声で盛り上げてくれます。
冬美は繊細で、あや子はあっさりとしている。さゆりちゃんは私のところにくると、10代の娘になってしまう。悠里は七夕の記念コンサートで浪曲を披露してくれ真面目で律義な娘です−。
3歳で舞台を踏んだときは、演台から顔が出なくて、みかん箱の上に座ってました。子供心に拍手やおひねりに喜んでいた記憶がうっすらありますね。私は5人兄弟の真ん中。きかん坊で「おとこおんな」というあだ名をつけられてました。
父が兄弟に「浪曲をやってみるか?」と言った時、私だけ「うん」と言ったので教える気になったそうです。
それから巡業をやって、「私にはこの道しかないんだな」と決めたのは、15歳のころ…。
芸のことで叱られたことや満足に食べられなかったよりも、一番辛かったのは寝るときでした。当時はまだ、旅館に泊まれるような芸人じゃなかったですから、楽屋泊まりが多くて…。
だれが寝たかわからない布団でくるまって寝るのは、とっても嫌でした。南京虫も出てきたし。早く街の旅館に泊めてもらえるような芸人になりたいという気持ちで頑張りました。
実は、最初に舞台に上がったときは関西節でしたが、途中で父に関東節に変えられました。これが私の芸能人生にとって非常に大きいことです。
というのも、関東節の方が三味線のキーが高い。関西節は女性や子どもでも取り組みやすいのですが、関東節をやったことで男の人のファンが増えたのが大きかった。
ホント、関東節に変え始めたころは、演台にしがみついて発声しないと体がグラグラするくらいきつかったです…。
「浪曲の岸壁の母があるの?」
浪曲師から歌手もやるようになったのは、昭和31年に浪曲集のLPを出したことがきっかけ。この時、レコーディングを聴かれたプロデューサーが、「こりゃ、歌にできるぞ」ということで、薦めていただいたんです。
「岸壁の母」は、昭和46年に出したLP「二葉百合子 涙の歌謡劇場」に入っていた曲。当時、懐メロブームで、何曲かの懐メロの中でこの歌を選んだのです。それをNHKの昼の番組で歌うことになり、番組担当者から「浪曲を入れられないか」という話に…。
浪曲師の室町京之介先生にお願いしたところ、電話で話している間に台詞を作ってくださって、それを入れて本番で歌った。そうしたら、「浪曲の岸壁の母があるの?」と視聴者からの問い合わせが殺到し47年にシングルで出しました。
今の時代ではカバーということはよくあることですが、元は菊池章子さんが昭和29年に歌っていた歌ですから、いろいろなことを言う人もいて。まあ、気にし過ぎても仕方がないですからね。
まもなく、岸壁の母のモデルになったお母さん(故端野いせさん)が実在することを知り、親しくして頂いた。お母さんは亡くなる直前まで息子さんが帰ってくる希望を捨てなかった。私も帰ってくる手がかりに少しでもなればという一心でした。
息子の反抗期、母に徹したことも
父は芸に厳しかったですけど、子煩悩でこまやかな人でした。母は楽天家で、子どもが熱を出しても「大丈夫、明日になれば下がっちゃうわよ」というようなのん気な人。むしろ、父が水枕で冷やしたり、額に乗っけるタオルや手ぬぐいをこまめに取り換えたりしてくれました。
主人のお父さんが地方の興行師で主人は歌手でしたから、私たちは20代から知ってました。結婚話が出てきたのは30歳過ぎ。ナフタリンのように異性関係にはうるさい父が「この男とならうまくやっていけるだろう」と思ったそうです。
子どもが生まれる2週間前まで仕事やって、出産25日後には再開。子どもの教育もあるし私の体を気遣ってくれ、夫婦でやれば私の体も少しは楽になると。夫は自分でプロダクションを始めマネジャーに徹し、本当は歌いたかっただろうに大変な決断でした。
岸壁の母がヒットしたあとの昭和53年、3カ月間仕事を休んで初めて手弁当を作り、母に徹したときがありました。
息子が私たちと話をしなくなって、部屋にこもってしまったんです。親が仕事で家を空けることへの寂しさへの反抗だったのでしょう。いまでは、結婚もしてすっかり明るくなってます。
家族を大切にしながら、この先も声の出るかぎりは、浪曲と歌をやり続けます。
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