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山本譲二
(2/10)

■やまもと・じょうじ
 昭和25年2月1日、山口県下関市生まれ。42年、早鞆(はやとも)高3年で夏の甲子園に出場。49年に伊達春樹の芸名でデビュー後、北島三郎の所属事務所に入り、53年に本名の山本譲二で再デビュー。55年に「みちのくひとり旅」が大ヒット。翌年、NHK紅白歌合戦に初出場(計12回出場)。平成7年、第37回レコード大賞最優秀歌唱賞を獲得。

故郷に恩返しのつもりで…

山本譲二
 昨年、大みそかの紅白歌合戦に出られませんでした。正直、メチャクチャ悔しかったっス。「落ちたのは仕方ないな…」なんて思っていると、紅白は、どんどん遠くなっちゃうから、怖い。

 事務所の後輩、北山たけしが初出場。オヤジ(北島三郎)は常々、「歌手はな、ステージでは年上であっても年下であってもライバルなんだ。だが、相手にいいことがあったら真っ先に祝いなさい」と。

 だから、北山に「頑張れ」と声をかけました。ガチガチだったですけど、自分も昔はこうだったな…と思い、逆に自分に新たに気合をかけ直しました。

 過去、紅白に5回落ちて5回這い上がってきた男ですから、1日に出した新曲の「風鈴」(テイチク)で、必ず6回目の復活を果たしたい。いや、果たします。ちなみに、2月1日は僕の誕生日。ここ数年、新曲はこの日のリリースがほとんどなんですが、仕事が入っているから誕生日を祝う会ができないのは寂しいですね(笑)。

 作詞作曲して頂いた津島一郎先生は、初めていっしょに仕事をさせて頂いたんです。オヤジが期待している先生で、まだ30代の若い先生です。

 初めて歌ってみると、これがまた、なんともなつかしさを感じる曲なんです。僕の曲は旅先で出会う女性の歌が多かったけど、この曲は珍しくいっしょに暮らしていた女性。いろんな意味で新しい挑戦なんで初心に帰り頑張ります。

 昨年、社会人野球チーム「山口きららマウントG」を結成し、総監督になりました。父が亡くなって6年経つんですが、生前に「50歳過ぎたら故郷に恩返しをしろ。山口県が育ててくれた歌手なんだから…」と言っていまして。父を亡くして、その一言の重みをぐっと感じたんです。

 やはり昨年、萩本欽一さんが野球チームを作ったのをみて、僕にもできるはずだと。歌を歌うこと以外では、野球しかない。夏に都市対抗の試合で東京ドームで君が代を歌わせて頂いたときに、「よし、作ろう!」って決心したわけです。

 チーム名の由来は、山口県は何かあると「きらら博」とか使うんです。知事にお会いしたときに、「ぜひチーム名に入れてほしい」と言われ、語呂もいいですし。防府(ほうふ)にある県で一番強いクラブチームを母体に、地元出身の池永正明さん、高木豊さんに手伝って頂いた。女の子も1人、テレビを見て韓国から来てくれた投手もいます。3月25日に、萩本さんのチームと対戦の予定。

 僕は「やるときゃ、やるぜ」ていう性格ですからいつも塁が埋まって点を取り合う、見ている方をドキドキさせる野球をやりたいです。



「山口県のジュリー」目指し上京

山本譲二
 今年で歌手生活32年目になりました。演歌歌手になりたいと思った理由ですか? 最初はアイドルを目指していたんです。全国区で女の人にモテたいという不純な動機で、「山口県のジュリー」を目指していたんですよ(笑)。

 上京してスナックで弾き語りのバイトをしていました。ホストクラブのナンバーワンかと思ってたら、お酒を飲まずにニシンとご飯を食べるお客さまがいて、その方が僕を歌手の道に誘ってくださった。(作曲家の)浜圭介さんでした。

 僕はコワモテで寡黙に見えるかもしれないけど、根はひょうきん。学生時代は、おそ松くんに出てくるイヤミの「シェー!」のポーズをよくしていました。

 デビューのころはオヤジ(北島)に、「歌手というものは、マイクを差し出させるまでは自分からしゃしゃり出てしゃべるな」と言われたのでおとなしくしてました。

 時代も変わり、歌っているだけではいけないと思い始めたのが40歳過ぎ。最近は、先輩の前川清さんや布施明さんとコントをさせていただく機会も多くなり、ひょうきんな面を出す機会も増えました。

 前川さんは、「みちのくひとり旅」がヒットしたときに初めて自宅に誘ってくれた先輩。当時、ウォシュレットというものを知らなくて、装置をのぞいたら、顔に水が「ピー」とかかって…。



本物の歌い手を見つけたい

山本譲二
 オヤジ(北島)さんと初めて会ったとき「何かスポーツをやっていたのか」と聞かれ、「野球をやってました。甲子園に出ました」と言ったら、受かりました。「みちのくひとり旅」が大ヒットしたときにお礼を言うと「最初は歌手にするつもりはなかった。オマエがいればウチの野球チームが強くなるのかな」と。オヤジなりのジョークなのか、とビックリしました。

 この歌を演歌の龍ことディレクターの馬渕玄三先生から紹介され「ぜひ、僕の歌に!」と頂いた。フンドシ姿で歌ったのは、「ザ・ベストテン」のディレクターからお願いされ、最初は断りましたが、「譲二さんほどフンドシが似合う日本人はいません!」と。「やるときゃ、やるよ!」って山口人気質で決断しました。

 その後、ゲイの人に人気が出まして、(新宿2丁目に近い)厚生年金会館でコンサートをするときは、よく出待ちで大事なところを触られて…。あるとき、マネジャーが「さぶ」という雑誌を持ってきたとき、僕のフンドシ姿が表紙になってました(笑)。

 妻とは、歌手生活と同じ32年前に知り合い、結婚まで14年待たせ、本当に苦労をかけました。娘が3人いますが宝物です。父が亡くなり自分以外は男がいなくなったので、「最近はむちゃしちゃいけないなあ」としみじみ思うようになりました。

 夢ですか? 自分はまだ発展途上ですけど、いい歌い手を見つけたい。作られた歌手でない。本物の歌手をね…