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【松浦達也 肉道場入門!】維新が生んだ名古屋コーチン 元武士の兄弟が確立した養鶏事業 (1/2ページ)

 牛肉食が明治維新の文明開化を象徴する肉食文化だとするならば、養鶏は、職業選択の変革を象徴する、“肉職”文化を構築したと言えるのかもしれない。

 明治維新の廃藩置県により、禄(ろく=給与)を離れた士族には、生活に困難を来す者も出現し始めた。そこで名古屋、金沢、鹿児島などの大藩では、産業に関する講習が開かれた。俗に言う殖産興業である。

 尾張(名古屋)藩では養鶏の講習が行われ、海部壮平・正秀という日本の養鶏事業に名を残す元武士の兄弟が養鶏という事業を確立した。この業態は「サムライ養鶏」とも呼ばれた。

 海部(かいふ)荘平・正秀兄弟は1872(明治5)年、地元・愛知県でそれまで放し飼いにされていた鶏を集めて大規模な養鶏業を営み始める。

 海部兄弟には養鶏事業の才覚があった。まだ確立されていなかった日本の養鶏に、米糠や麦糠、魚屑などを練り餌として持ち込み、明治10年頃からはバフコーチン(九斤)種を使った交配に乗りだした。

 そして明治17年、ついに改良種800~900羽から「海部種」「薄毛」と呼ばれる、8羽の種鶏を得ることに成功した。

 これこそが現在の「名古屋コーチン」の祖。日本を代表する銘柄鶏は、尾張藩士というサムライの手で生まれたのだ。

 その後、「名古屋交趾」と呼ばれたこの鶏は、1905(明治38)年に「名古屋コーチン」として日本家禽協会から国内初の「国産実用鶏」の公認を受けることになる。

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