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たかの友梨

運が悪くても禍福の美ーナス (03/23)

 たかの・ゆり 美容家。たかの友梨ビューティクリニック代表。全国に125店を展開する。近著『大成功できる人の小さな心づかい』(きこ書房)では、26歳でマイナスから起業し、腕一本で業界No.1の成功をおさめた極意が記されている。

 エステに通う男も増えているが、世の男性へ。
 「耐えられないのは整髪料。おじさん臭いっていうのは、本当に臭いんです」。といっても、「香水もダメ。フサフサで臭いより、ハゲで無臭がいい」。さらに「30歳過ぎたら、歯の手入れも大切。見て触って味わって、女の五感に感じるきれいな男であってほしい」。その心は「昔は男はお金があれば良かったけど、今は女もお金、持ってるでしょ」。
たかの友梨
たかの友梨

【3歳の時、鉄道員の家の養女に】

 バラ色の頬に優しい眼差し。エレガントなその姿から、「運が悪くて良かった」と自らが言う生い立ちを、想像するのは難しい。

 昭和23(1948)年、新潟県生まれ。父は医師、母は看護師だが、不義の子だった。3歳で新潟の鉄道員の家の養女となった。「清水トンネルを出てすぐ、そこは雪国だった、の“そこ”よ。線路沿いに家があってね。養父はハンサムで、養母はおしゃれで美しい人だった。お料理も裁縫も上手で」

 だが、養父が住み込みで働いていた姪っ子と密通。養母は娘の手を引き、家を出る。群馬は前橋の、とある寮の寮母をしていたら、イケメンの男に求婚された。

 「しかも4歳年下。ところが1年もたたずに生まれた子が、脳性マヒだった」

 2人目の夫もまた、芸者と駆け落ちしてしまう。連れ子、姑、幼子を抱えて途方に暮れ、養母はやむなく娘を実家に預けた。小学校2年生のときである。

 それがまた、厳しい家だった。「働かざるもの食うべからず、でね。親戚の美容師の家で働いて、勉強ができると逆に叱られる。食事も11人の家族の給仕をしながら食べた。でもいつかお母さんと暮らせるようにと頑張りました。母は私にとって、幸せの象徴だった」

【養母の教えは「男に頼るな。手に職を」】

 6年生のとき、ついに夢がかなう。「でもね、私はマリア様のような理想像を作り上げていたけど、考えてみれば母は40歳の女ざかり。現実は違ったのよ」

 養母には、またも新しい夫がいた。邪魔者扱いされた。反抗期も重なり、利根川に入水しかけたこともある。「でも冷たくって寒くって。やめて家に戻ると、母が夫と楽しそうにしている。ここで死んだら犬死にと思ってね」

 ならばグレてやる、と誓うが、生来働き者。どうもうまくない。結局「いい子が得」と悟る。

 この頃、自分はもらい子だと知った。男に翻弄されつつも継子の手を離さなかった養母の口癖が「男に頼るな。腕一本で子供を育てられるよう、手に職をつけなさい」。

 「生みの母より育ての母が好きだった。育ての母はきれいだったから。きれいなものが好きなの」。冗談めかしつつ、目尻に涙が光る。

 養母の言葉に従い、中学卒業後は夜学に通いつつ理容師の学校へ。住み込みのインターンを経て、はたちで上京、理容室に就職した。

 昼夜なく働く日々がたたったのか、ニキビが顔一面にできた。そんなとき出合ったのが、「フランスでエステティックが静かなブーム」という雑誌記事だった。

【自分の持っている以上のことはやりたくない】

 貯金をはたき、24歳で渡仏。8カ月学んで美顔器のカタログを持ち帰り、知人らに頼み同じものを作ってもらった。通信販売を開始。購入者からの問い合わせに応えようと、東京・新大久保でショールームを開いた。エステティックサロン「たかの友梨」1号店である。

 禍福は−なのであろう。「どんどんお客様が来てね。それからはトントン拍子」

 松田聖子から米倉涼子まで、旬のタレントを使ったCMで知名度をあげた。「効果があるのないのと叩かれ、社員にまず教えてあげたくて」始めた、ぽっちゃり女性がスレンダー美人に変身する、今年17回目を迎えるコンテスト「エステティックシンデレラ大会」で腕を証明した。

 「下駄履きサロン」のつもりが、30年を経て、期せずして「高級サロン」になった。快進撃のようだが、「自分の持っている以上のことはやりたくない」堅実派でもある。

 私生活では、年下の夫と2人暮らしだ。

ペン・内藤敦子
カメラ・瀧誠四郎