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野口恭一郎

アガリ続ける麻雀界のトップランナー (06/08)

 のぐち・きょういちろう 麻雀博物館理事長。株式会社竹書房名誉会長。1934(昭和9)年、福岡県生まれ。72歳。上京してシナリオ研究所、画商、出版社勤務を経て、72年に竹書房を創業。日本初の麻雀専門誌を発刊する。
 麻雀博物館を設立するとともに、麻雀文化の研究に尽力。2002年には20カ国参加の世界麻雀選手権大会を実現した。

 【麻雀博物館】開館時間午前10時−午後5時/月曜日休館(月曜が祝日の場合は翌日が休館)/入館料大人200円/千葉県いすみ市岬町中原1−2/JR外房線上総一ノ宮駅下車(東京から特急で約60分)、タクシーで8分。または東浪見駅下車、徒歩20分/車利用の場合は、千葉東金道路・大宮ICから千葉外房有料道路、国道128号で約60キロ。または川崎から東京湾アクアライン・木更津ICを経て国道409号から国道128号。東浪見信号入る
野口恭一郎
野口恭一郎

【「麻雀博物館」設立はお世話になった恩返し】

 「日本では竹書房名誉会長だが、海外だと麻雀博物館理事長の肩書のほうが通りがいいんです」

 1999年、千葉県岬町(現いすみ市)に世界初の「麻雀博物館」をつくった理由は、「お世話になってきた麻雀への恩返し」だという。72年に竹書房を興し、日本初の麻雀専門誌『月刊近代麻雀』を創刊。同社を総合出版社に成長させ、88年に会長に就任したころから構想を温めてきた。

 「世界で初めて、というのがよかった。麻雀博物館をつくりたいと手を挙げたら、予想以上に日本全国から牌など寄付があった。世界の骨董界でも反響が大きく、中国、欧米など世界中から売り込みファクスが届いた。それを2年間、片っ端から買っちゃったんです」

 集まった文物は牌が5000セット、文献が1万冊、雀卓なども合わせて計2万点に及ぶ。お国柄がにじむ諸国の牌、日本麻雀の草分け・菊池寛の愛用牌、巣鴨プリズンで戦犯らが熱中した服役者手作りの木彫り牌、麻雀のルーツの紙牌…。

 特にお気に入りは「ラストエンペラー宮廷牌」。愛新覚羅溥儀が満州国の宮廷で愛用した「ウン千万円」という螺鈿の牌だ。

 収蔵品の多くは中国・清朝時代のもの。「中国大使館の職員に買い戻したいと言われる。日本人が海外で浮世絵を見るような気持ちだと思う」。日本での開館に刺激を受け、麻雀発祥の地である淅江省の寧波(ニンポー)市に麻雀記念館ができた際には、麻雀博物館も370点余を寄贈している。

【阿佐田哲也の一言で「近代麻雀」創刊】

 麻雀と出合ったのは、斯界の重鎮にしては意外に遅い27歳だった。

 文学を志し福岡から上京後、シナリオ研究所を経て、当時は出版社の営業マンだった。それから約10年後、「シナリオ研で同期だった作家の板坂康弘が、麻雀専門誌を思いついた。阿佐田哲也の『全面協力する』の一言で踏み切れた」。

 数名での創業後は「麻雀をやる暇もないほど波瀾万丈だった」。意に反して『近代麻雀』は不振を極め、創刊1年余で赤字は数億円に。「夜逃げしようかとも思ったが、毎月の返済を先延ばし、もうひと勝負した」

 中級者向けだった内容を、初心者向けに刷新。すると「全共闘で授業もなく、麻雀をはけ口にする団塊の世代とピタッと合った」。さらに麻雀劇画だけの臨時増刊を出したところ大ヒット。これが現在の『近代麻雀』各誌の原型となった。

 毎月数千万円の赤字経営から数千万円の黒字に急成長したが、好事魔多し。「調子に乗って飲んだくれてしまった」

 社員に「手形2億円が落とせない」と宣告され、銀行で「一生懸命やってダメなら見込みはないが、これから心を入れ替えまじめにやります」と土下座。この存亡の危機を救ったのが、『近代麻雀』に連載していた植田まさしの4コマ漫画「フリテンくん」だった。

【3度の経営危機】

 3度目の危機は94年。加納典明氏のヘア写真集で「1冊で毎月3000万円稼いだ」が、加納氏が「ヘアは文化。警察は怖くない」と公言。当局の警告を受けても馬耳東風の加納氏もろとも、逮捕の憂き目に遭った。

 「会社がグラグラになった」が、今度は堀田かつひこの4コマ漫画「オバタリアン」が大ヒットし救世主となった。

 経営の一線から退いた今も、友人と週2回の麻雀をたしなむ。

 「麻雀文化を研究するための、貴重な資料の保管。老若男女各年代に合わせた麻雀の普及。麻雀を無形文化遺産として申請する中国への協力。囲碁やチェスなどが予定される頭脳スポーツ五輪への麻雀競技の参加。この4つをお手伝いしたい」

 麻雀文化の牽引者として、まだまだ意気盛んだ。

ペン・笹森 倫
カメラ・大西正純