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草間彌生

描くことは生命力の根源(10/20)

 くさま・やよい 画家。1929年3月22日、長野県松本市生まれ、77歳。少女時代の幻視体験に触発され、絵を描き始める。1957年に単身渡米、ニューヨークを拠点に増殖する水玉や無限の網をモチーフに斬新な絵画を発表。立体作品や彫刻、大胆な「ハプニング」を繰り広げ注目を集める。73年に帰国。93年のベネチア・ビエンナーレに参加。98年から翌年にかけ、日米の美術館を巡回する回顧展が開かれた。
 美術作品だけでなく、小説、詩集も多数発表。83年小説「クリストファー男娼窟」で第10回野生時代新人賞を受賞。2000年、第50回芸術選奨文部大臣賞、外務大臣表彰。02年、紺綬褒章受章。今年10月、第18回高松宮殿下記念世界文化賞絵画部門を受賞。同賞受賞の日本人女性は初めて。
草間彌生
草間彌生

【ジョージア・オキーフの影響受け渡米】

 水玉や網模様をモチーフにした、強烈な色使いの絵は見る者に強い印象を与える。

 その“画題”で描くのは長野・松本で過ごした少女のころからだった。

 「とにかく描くのが好きで、ひとりで描いていました。5歳のころから母の絵に水玉を入れて…。水玉とか網とかが盛んに出てきて、それを描いていたんです」

 戦時下にあって、ひとりで絵を描き続けた。それが、結実するのは戦後になるが、その間、影響を受けたのは20世紀を代表する米国の女性画家、ジョージア・オキーフ(1887−1986年)だった。

 「彼女を知ったのは、地元の古い本屋さんに、戦時中なのにアメリカの美術を紹介する本があって、その中にオキーフさんの作品があったのです。27歳で渡米するのですが、その際、アメリカ大使館に行って、彼女の住所を突き止め、手紙を書いた−」

 米国の占領体制が終結して間もなく、外貨の持ち出し制限もある時代に簡単なことではなかった。

 「世界の美術界に挑戦するには、やはりパリかアメリカへ、と。オキーフさんや政治家にも頼んでビザを得られました。夢の中にいるようにうれしかったですね」

【NYに拠点、最前線へ】

 ニューヨークに拠点を置き、現代芸術、前衛芸術家の多くと交流を結び、世界のアートシーンの最前線にあった。

 「オキーフさんも絵を買ってくださって、ニューヨークが大変だったら自分の住むテキサスにおいで、とも言っていただきました。でも、死にもの狂いで芸術の仕事をして、国際舞台に出た…。アメリカに行って人生の新しい花が開きましたね」

 1960年代後半にはボディー・ペインティングを始め、ハプニング(ゲリラ的なパフォーマンスアート)を行う。また映画製作や新聞の発行などの活動も行った。

【5歳から始めていても入り口しか行ってない】

 今も、海外で年数回のショーを行うなど精力的な活動を続けるが、「一眠りすると、また描きたくなるの。こうして描き続けるのは、私自身が想像の世界に足を踏み入れていなくては、自分の“生”がもたない感じなんですよ」と説明する。

 そして、「描くことは自分について生命力の根源に触ること。私自身が一生懸命描いていきたいという明日への希望を持っていなかったらやっていけないんですね」という。

 「愛は永久(とこしえ)というメッセージを世界各国にばらまいて死を迎えたいと思います。でも、5歳から描き始めていても、まだまだ入り口までしか行ってませんよ。100歳まで生きて、自分の人生を形作っていきたいです」

 創造の泉は、かれるいとまもない…。

日本美術協会「高松宮殿下記念世界文化賞」取材班