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【名越稔洋】徹底的に熱く!一躍その名を知らしめた「龍が如く」

2011.04.20


名越稔洋【拡大】

 もともとは映画を作りたかった。「大学も映画学科を卒業したけど、当時は日本映画がガタガタで、仕事といえばテレビのAD(アシスタント・ディレクター)かアダルトビデオの監督くらい。でも、そんなことをやるために僕は東京にきたんじゃないから」

 上京したのは15の時。家庭問題が原因で家を飛び出した。「自分の主張に周囲は誰も共感してくれない」思春期の日々に孤独を深める。その後、大学時代に同棲していた彼女がプレゼントしてくれたファミコンでゲームと出合う。

 「昔は貧乏だったから、1日中ファミコンをやっていました。そのうち、ゲームが面白いと思うようになって、ゲーム作るのもいいかもと思うようになった」

 ゲーム大手のセガ入社後、「バーチャファイター」や「デイトナUSA」などのヒット作に関わる。そして2005年、人間ドラマを熱く描いた「龍が如く」シリーズで400万枚以上の大ヒットを飛ばし、一躍その名を業界の内外に知らしめた。

 「僕は、日本だけでこれだけ売ったことを誇りに思っているんですよ。それまで僕は、僕の発想に共感が少ないからメジャープレーヤーにはなれないんだとずっと思っていた。でも、マイナーも実はバカにできない。そこをうまく−−ペンペン草も生えないくらい、マメにかつキレイに刈り取れれば、きちんとマーケットになる。『龍が如く』はそれを徹底的にやりました」

 「徹底的に」は自身の外見まで及ぶ。ぜい肉を徹底的に落とした体を日焼けサロンで焼き、髪を金色に染める。「役員会議にもこのままの格好で行く」という。アウトローたちの抗争をモチーフにした「龍が如く」の“歩く広告塔”みたいな外見だが、その内面には作品に対する揺るぎない自信と、苦労をかけている部下のために、自分が先頭に立って1本でも多くゲームを売るという固い決意が秘められている。

 大胆な戦略を支えるのは、緻密な戦術だ。「ゲームも普通のビジネスと同じで、一獲千金なんかない。もちろん、夢はありますよ。でも無謀とは違います。いま、世界的にSNSがはやっていることもあって、6億人市場を相手にビジネスをしようなんていう大きな話をよく聞くけど、戦略がないかぎり成功する可能性は限りなく低いと思う」

 自慢は「一度もソフトの発売延期がない」ことだった。だが、3月11日に東日本大震災が発生、17日に発売を予定していたシリーズ最新作「龍が如く OF THE END」(プレイステーション3用)の発売は延期せざるを得なかった。「会社と僕自身が、慎重な配慮と判断をした結果」と語るが、納期厳守を旨としてきただけに表情には苦渋がにじむ。

 ところが、根強いファンが発売を熱望、セガはその声に応え6月9日の発売を決定した。「なんとか日本中を元気にしたい」という思いを込め、「がんばろう日本」の特製ステッカーを同封し、売上金の一部を日本赤十字に寄付するという。

 「思春期は言葉で何かを伝えることが難しい時期だと思うし、実際、僕もそうでした。あの時はしんどかったし、慰めてほしかったし、夢がほしかった。いまは大震災の後だから、もしかしたら同じように悩んでいる人が多いかもしれませんね」

 「もし、タイムマシンで15歳の時の自分に会えたら、『まぁ、いい人生だったぞ』って伝えたい。家を飛び出した後も、たくさんの人に助けてもらってちゃんと生きてたし、そこそこいい生き方してるぞって言いたい。そんな気持ちを、あのころの自分と同じように悩んでいる不器用な彼らに伝えたくて、僕はいまもゲームを創っています」

 (ペン・石島照代 カメラ・三尾郁恵)

プロフィール 名越稔洋(なごし・としひろ) 1965年6月17日、山口県下関市生まれ、45歳。東京造形大映画学科卒。89年、セガ入社。「バーチャレーシング」、「バーチャファイター」などの作品にCGデザイナーとして参加。初プロデュース作品は94年の「デイトナUSA」。98年にAM11研部長、2000年にセガ子会社アミューズメントヴィジョン社長。04年、子会社統合を受けてR&Dクリエイティブオフィサーに就任。実は任天堂入社も考えていたが、当時はまだ東京開発がなかったため断念。「でも、受けたところで受からなかったと思いますよ。いまでも任天堂の方と、その話をしますけどね(笑)」

 

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