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【前川清】歌でつながった“復興の輪”…時代と共に生きる

2011.08.18


前川清【拡大】

 あのとき−。

 日本中が彼の歌で確かにつながった。1995年12月31日、NHK紅白歌合戦。阪神・淡路大震災が起きた年である。同局には出場者の発表前、被災地から「前川さんに『そして、神戸』を」との電話や投書が殺到。復興の“応援歌”を願う思いが列島を巻き込み、番組では瞬間最高視聴率を記録した。紅白史上に残る名場面だ。

 「それまで、自分の歌を応援歌だと思って歌ったことはありませんでした。テーマといえば、“女を捨てた、だました”なんてものばかり。『そして、神戸』も、本来の設定は他愛もない男女のことです。それが震災後、『泣いてどうなるのか』『呼んで帰る人か』といった歌詞が別の意味を持った。普通は舞台に出るときアガるんですよ。ところが、このときは冷静でいられた。何というか、後押しされるパワーを感じましたね」

 あのとき−。

 少年は外国人バーから聞こえてくるジュークボックスの重低音に心奪われた。故郷の長崎・佐世保。軍港の街には戦後、米海軍基地が置かれたため多くの米兵が身近にいた。ふるさとで慣れ親しんだ旋律は民謡ではなく、ベースの効いたジャズ。単なる演歌でも歌謡曲でもない、唯一無二の“前川節”はこの地で育まれた。

 「学校からの帰り道、バーのドアがあちこちで開いていて、ジュークボックスの音楽がボンボンとすごい音なんですよ。重低音が好きで、今でも僕の歌はベースの効いたものが多いです。洋楽が好きになって、たとえばクリフ・リチャードやポール・アンカとか。佐世保で民謡は聞いたことがなかったですね。演歌だと、吉(幾三)君や藤あや子ちゃん(の歌)を聞くと、土の匂いが伝わるというか。民謡を盛んに耳にしたのでしょうね」

 あのとき−。

 人気絶頂のコメディアンから「清ちゃん、お笑いをやらない?」と誘われた。声の主は萩本欽一。無口なキャラを確立していた二枚目歌手は『欽ドン!』『欽どこ』でのコントを通じ、天才が持つ「間」を学びながら新境地を切り開いた。

 「前へ突っ込むことは誰でもできます。でも欽ちゃんは引っ込むことができる。しゃべるときにダブらず、スッと引く。あの間合いは勉強になりました。僕は当時、テレビでは真面目に歌って、その後も『普通に立っていて』と指示されただけ。ところが、その姿がボーッとしているように見えて笑われる。自分では気づきませんでしたが、欽ちゃんはそれが面白いと思ったのでしょう。僕という存在をうまく引かせることで笑いを取ったのですね」

 さて、63歳の誕生日が目前だ。最も戻ってみたい「あのとき」とは−。

 「小学校低学年のころですね。3年生のとき、変形性股関節症になって1年間も入院しました。それまで駆けっこがメチャクチャ速くて、2年生のときに6年生に負けなかったほど。痛みは(2008年に)人工股関節を埋め込むまで続きました。今は痛みはないのですが、手術で右足が2センチ伸びたので平衡感覚がおかしい。ゴルフは全く当たらない、水泳はバランスが崩れて息継ぎができない、暗い道はフラついてまともに歩けない…。体内の器具を守るため正座はダメ、和式トイレもダメ。不自由ですよ。でも、四分六で手術したほうが『よかった』と思わないことにはねぇ。だから手術してから、なおさら思うようになりました。あのときに戻って、思いっきり駆け回ってみたいな、と」(ペン・久保木善浩 カメラ・伴龍二)

 ■まえかわ・きよし 1948年8月19日生まれ、62歳。長崎県佐世保市出身。69年、内山田洋とクール・ファイブのボーカルとして「長崎は今日も雨だった」でデビュー。その後「そして、神戸」「中の島ブルース」「東京砂漠」などが大ヒット。87年にソロ活動を開始。「花の時・愛の時」などのヒットを飛ばした。今年、新曲「あの時代(とき)にはもどれない」をリリース。9月1日にはサザンオールスターズの名曲をカバーしたCD「SEA SIDE WOMAN BLUES」を発売する。9月25日に「軽井沢大賀ホール」(長野県軽井沢町)で地元女声コーラス・少年少女合唱団とジョイントコンサート。S席7000円、A席5000円。チケットの問い合わせは前川清友の会(電03・5731・8948)へ。

 

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