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【曽根中生】“ロマンポルノ”立役者はヒラメを養殖!

2012.06.08


曽根中生【拡大】

 6月1日まで東京・渋谷ユーロスペースで特集上映されていた日活創立百周年記念「生き続けるロマンポルノ」の初日(5月12日)、会場に突然現れた。大分県から「自腹で」上京したのだという。

 この日は「天使のはらわた 赤い教室」(1978年)、なぎら健壱が出演した未公開作「白昼の女狩り」(84年)の2本の監督作が上映された。二十数年もの長き不在に対し、「多額の借金返済のためにダンプの運転手をしている」「ヤクザの抗争に巻き込まれ、コンクリート詰めにされて海底に沈んだ」など数々の噂が流れ、ロマンポルノの立役者の一人、曽根中生の名前は久しく都市伝説化されていた。

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 「3月11日の大震災がなかったら、私は皆さんの前に現れなかったでしょう」

 目の前に現れた曽根中生は、80年代よりさらに痩せた姿で話し出した。外見の変貌ぶりには驚かされたが、聞けば「食道がんになり、10年以上前に酒もたばこもやめた」と言う。

 背広にネクタイ姿、手渡された名刺には、「曽根義忠」という本名とともに「取締役副社長」の肩書。住所には「大分県臼杵(うすき)市」と記されていた。大分県の会社で環境配慮型燃料の製造装置を研究・開発しており、その装置が「灰とセシウムを分離させることができる」。そのことを伝えるため、2011年夏に突然、湯布院映画祭に姿を現した。今回の“登場”も同じ理由で、東京でのイベント後には福島に向かう予定を組んでいた。

 「24年ぶりに上京しましたが、東京のあまりの変貌ぶりに、驚くというより怖かった」という。一体なぜ、東京を離れたのか? 理由を問うと、一気に話し出した。

 「『唐獅子株式会社』(83年)で知り合った横山やすしさんの縁で、競艇界を舞台にした『フライング 飛翔』(88年)を監督したのですが、そのとき、現役競艇選手の野中和夫さんにこっぴどく怒られたんです。『これは競艇選手の姿を描いていない!』とね。家に戻ると、妻は子供を連れて熊本の実家に帰ってしまっていた。六畳一間に1人残され、あるのは借金だけ。映画を撮るのが嫌になっただけでなく、自分自身にも嫌気がさしたんです」

 だが、曽根中生といえば、70年代からロマンポルノだけでなく映画界で縦横無尽、精力的に活躍していた男のはずだが…。

 「日活に第8期生として入社し、フォース(4番手の)助監督から監督デビューしたときは、付いた助監督が先輩ばかり。スタッフも年上のベテランばかりでね。1日にひとつは周囲を驚かす魔法を使おうと考えながら監督した。『BLOW THE NIGHT 夜をぶっ飛ばせ!』(83年)で本物の不良中学生・高田奈美江に会ったときは逆に驚いたけどね」

 映画には驚かされたが、それ以上に驚いたのが「失踪」。そして最も驚かされるのが、現在の職業だ。

 「『フライング 飛翔』を撮った直後に野中さんに大分に招待され、そこで紹介されたのがヒラメの養殖の経営者。その翌日にはヒラメの養殖を手伝っていたんですよ」

 「ヒラメの養殖は24時間、目が離せないのです」。だから、横山やすしさんの訃報も届かなかった。その後、九州大学の研究室に通い、環境配慮型燃料の研究を進め、「磁粉体製造装置」と「エマルジョン燃料装置」の2つの特許を取得したという。

 映画ファンが知る、かつての曽根中生は消えてしまったのか…。

 「いや、さっきも10分から15分の(短編の)企画を製作者に話したところです」

 その言葉を聞いて視線を正面に向けると、そこには懐かしい映画監督の顔があった。「復活」は案外近いかもしれない。(ペン・小張アキコ、カメラ・大西正純)

 ■そね・ちゅうせい 1937年10月1日、群馬県生まれ、74歳。62年、東北大学文学部美術史科卒業後、日活入社。71年、「色暦女浮世絵師」でデビュー。76年、「嗚呼!!花の応援団」が大ヒット。79年にATGで坂口安吾原作「不連続殺人事件」、81年には松竹で「博多っ子純情」を監督し、ロマンポルノ以外でも力量を見せる。80年にはヨコハマ映画祭で最優秀監督賞を受賞した。

 ■「生きつづけるロマンポルノ」は夏にユーロスペースでアンコール上映が決定。日活創立100周年を記念した「日活100年の青春」特集上映が有楽町ヒューマントラストシネマで9月8日から開催されることも決まった。ここでは曽根監督のロマンポルノではない一般作品が上映される予定。

 

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