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【秘録 今明かす「あの時」】闇の勢力に数千億円が消えた「戦後最大の経済事件」 無謀な不動産投資、いわくつき企業を傘下に…

★イトマン事件「火付け役」が語る舞台裏(1)

 バブル期に中堅商社イトマンから闇の勢力に数千億円が消え、多くの逮捕者を出した特別背任事件。都市銀行を巻き込む「戦後最大の経済事件」を最初に報じたのは日本経済新聞のスクープ記者、大塚将司(67)だった。事件発覚の道を開いた舞台裏を明かす。

 “昭和天皇ご重体”と報じられ、自粛ムードの最中だったが、バブルの“狂気”と“熱狂”が衰えることはなかった。

 30年前の1988年10月19日。旧知の住友銀行業務渉外部部付部長の國重惇史氏からお呼びが掛かった。私は日経新聞経済部記者で、大蔵省内の記者クラブ(通称“財研”)に在籍していた。

 彼の自宅マンションで午前零時前から2時間余り話を聞いた。話題は住銀の“ドン”磯田一郎会長の腹心、河村良彦・住銀元常務が社長として率いるイトマン(旧伊藤万)の地上げ問題だった。國重氏は南青山の地図を広げて説明した。全てを買い上げるのは困難で、虫食いの状態では債務だけが膨れ上がっていく。記事にして欲しいという。しかし、私は「株価と地価がこの状況では無理だ。記事にしても何のインパクトもない」と断った。

 だが、無謀なイトマンの不動産投資に興味を持たなかったわけではない。「“狂奔”する日本を何とかしなければ…」という思いは募るのに、何もできない自分にいら立ちを覚えていた。紙面で株価と地価の高騰に警鐘を鳴らすキャンペーンを展開するとか、その気になればできることはあった。

 しかし、犬の遠吠えにしかならないだろうと読めていた。自分の持ち味は個別の問題案件を暴き、世間の耳目を集める手法で、格好のネタだったが、“水に落ちた犬を叩く”ような局面で動かないと、線香花火に終わる。時期尚早だった。

 1年余り経った翌89年12月。元号は昭和から平成に変わっていた。日銀生え抜きの“プリンス”三重野康氏が日銀総裁に就任、即座に利上げに踏み切った。すると、年明けの90年年初から株価が下落に転じた。

 そんな時である。また國重氏から連絡を受けた。1月23日夕刻。日経夕刊2面に「雅叙園観光、伊藤万グループ傘下に-3月に第三者割り当て」という見出しの記事が載っていた。その記事を元に情報提供したいというので、2月2日に会うことにした。私は財研を離れ、年初から経団連など経済団体を担当する財界記者クラブ詰めになっていた。

 電話を切って、夕刊の記事を読んで「ヤバいな」と直感した。「雅叙園観光」は山口組系の元組長の池田保次氏が率いる仕手筋「コスモポリタン」の買い占め対象だった銘柄の一つだった。池田氏が乗っ取って経営権も取得し、融通手形を乱発して食い物にした企業だった。傘下に入れるということはその債務を引き受けることを意味していた。

 國重氏と会ったのは皇居近くのパレスホテル。昼食を取りながら説明を聞いた。夕刊には第三者割当増資とともに、筆頭株主として伊藤寿永光・協和総合開発研究所社長が登場とあったが、私は伊藤氏を全く知らなかった。その伊藤氏について國重氏は詳しく解説、すでにイトマン社内に席を持ち、毎日出勤しているうえ、バックに山口組の宅見勝若頭がいると明かしたのだ。

 この時点では88年11月に破産した「コスモポリタン」から宅見若頭に株が渡り、それを伊藤氏が89年5月に引き継いだという話だったが、実際は、表に出ていたのは宅見若頭でなく、意を受けた許永中氏だった。伊藤氏とともに許氏がイトマン事件の主役の1人として脚光を浴びる原点だった。

 2人の共同取材はここから始まった。(大塚将司)

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