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【秘録 今明かす「あの時」】イトマンは“水に落ちた犬”と確信した日 大蔵省の“劇薬”総量規制で整った環境

★イトマン事件「火付け役」が語る舞台裏(3)

 バブル期の1990年、中堅商社イトマンは、闇の勢力に食い込まれ、巨額の債務を抱えるようになり、メーンバンクである住友銀行の「ドン」と呼ばれた磯田一郎会長も悩ませていた。日本経済新聞経済部記者の大塚将司氏は、住友銀行部長の國重惇史氏の協力を得て取材を進め、「戦後最大の経済事件」を追い続けた。(肩書は当時)

 イトマンが“水に落ちた犬”になると確信したのは、住友銀行の磯田一郎会長に対する3度目の取材をした日の前々日、1990年3月27日だった。

 その日、大蔵省は地価高騰を防ぐため不動産業向け融資残高を規制する「総量規制」を4月から実施することを決め、通達した。前年同期比伸び率を総貸出残高の伸び率以下に規制するもので、総貸し出しの伸び率が10%なら、土地関連融資も10%以下に抑えなければならない。総量規制は列島改造計画で地価が高騰した73年以来17年ぶりだった。

 通達を出したのは89年6月に事務次官に昇格した平澤貞昭氏の後任銀行局長に就いた土田正顕氏だった。正顕氏は土田・日石・ピース缶爆弾事件で新左翼過激派の標的にされた土田國保元警視総監の実弟で、この正顕氏こそ、のち(同年5月)に、私と國重惇史氏がイトマンの不良資産の実態を内部告発する手紙を最初に出した相手だった。

 三重野康・日銀総裁の矢継ぎ早の利上げはマクロ政策としてバブル潰しに効果があるのは間違いなかったが、それで事足りるとは思っていなかった。バブルに踊る金融機関の融資姿勢を変えさせるための“対症療法”も不可欠だと考えていたからだ。

 実は、私は財研(大蔵省記者クラブ)時代、土田氏の局長就任時から毎週のように銀行局長室で懇談していた。その度に「総量規制という選択肢はないのか」と提案したが、「劇薬だからそう簡単にはできない」と慎重な姿勢を崩さなかった。

 しかし、三重野総裁誕生前後の89年12月頃から応答が微妙に変わってきた。総量規制の話になると、ろくに返事もしない。私は「土田さんも本気で考え始めたかな」と感じ始めていた。

 年が明け、私は財研から財界クラブに担当替えになったが、土田氏とは定期的に懇談を続けるつもりだった。國重氏から情報提供を受けることになっていた90年2月2日の前にアポを取った。

 1月31日。雪が降りしきる日だった。午後2時半から銀行局長室で意見交換した。土田局長は“劇薬”という言葉は一切使わず、「お主、本当に地価は下がると思うかね」と聞き返され、私は「株価も下がり出しています。確実に地価の下落も始まり、地上げ屋たちを追い込めます」と力説すると、腕を組んで考え込んだ。

 内心、「土田さんは腹を括(くく)った」と確信した。「大蔵省、不動産融資に総量規制導入を検討」という見出しの記事を書く気になれば、書けるとわかっていた。私は、國重氏の言うように“書かずの大塚”で、このネタで特ダネ記事を書こうという気はさらさらなかったのだが、イトマンを追い詰める環境が整うだろうという判断は確かなものになった。

 想定通り、2カ月後に“劇薬”が実施されることになったわけだ。しかも、3度目の磯田会長への取材で、イトマンが“闇の勢力”に取り込まれたのが確実になり、4月に入ると、すぐに國重氏と私はどのようにして口火を切るか、報道のタイミングやその中身を詰めた。

 その結果、第1報はイトマンが決算発表する当日(5月下旬)の朝刊に掲載し、その中身は不良資産の規模を目玉にしようということになった。記事にするにはグループ全体の不動産投資の規模や借入残高などのデータが不可欠だったが、残念ながら、2人ともまだ信頼に足るデータを入手できていなかった。(大塚将司)

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