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【名城と事件】弘前城(下) 幕末まで続いた「遺恨」

配信元:産経新聞

 津軽氏の居城である弘前城(青森県弘前市)には、東照宮がある。東照宮といえば、日光東照宮を総本宮とする徳川家康を祀った神社だが、日光以外で東照宮が初めて分祀(ぶんし)されたのは弘前城が第1号である。

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 一外様大名でしかなかった津軽氏が、なぜ徳川御三家や親藩大名より先に東照宮を建てることができたのか。それは、家康の養女であった満天(まて)姫が2代藩主、信枚(のぶひら)の正妻になったからだ。

 東照宮が城内にあるということは、実は極めて大きな意味がある。徳川氏との友好関係は誰が見ても明らかであり、徳川幕府統治下の日本においては最高の「御家安泰の御守り」であった。

 戦国時代末期の津軽氏と南部氏との関係は、弘前藩と盛岡藩となっても「犬猿の仲」が続いた。だが、南部氏が遺恨から弘前城を攻めれば、家康の神霊(しんれい)に弓を引き、徳川幕府への反乱とみなされる。弘前藩にとって、盛岡藩を牽制するうえでも東照宮の存在は非常に大きかった。

 ところが、明治元(1868)年に起こった戊辰戦争では、弘前藩は幕府側である奥羽越列藩同盟には参加せず、新政府側として戦い、戊辰後は奥羽触頭(おううふれがしら)の地位に就いた。

 一方の盛岡藩は、仙台藩とともに最後まで奥羽越列藩同盟の中心的役割を果たしたため「賊(ぞく)軍」となる。おまけに同盟諸藩で最も遅く停戦した。津軽氏と南部氏にとって、戦国末期の因縁を残したまま明治という時代を迎えたのは歴史のいたずらだろうか。

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