【ぴいぷる】読書忘れたネット世代に喝 元駐中国大使・丹羽宇一郎氏「必ず後で手痛いしっぺ返しを食らう」

丹羽宇一郎氏

 「いまの私は干物のような年齢ですよ。だからこそ自由だし、誰からも束縛されることがない。血気盛んな年齢だったらこうはいかない。きっと何か発言するたびに袋だたきにされてしまいますよ」

 伊藤忠商事のトップとしてドラスチックな改革を行い、名経営者の名をほしいままにしてきた。その後、民間人として初めて駐中国大使を務め、尖閣問題に端を発した日中間の摩擦回避に、自らの信念にもとづき立ち向かったことでも知られる。

 冒頭の言葉は、こうした世界に身を置いてきた経験から出た真情だろう。

 この「干物」うんぬん。枯れ果ててしまったという意味ではない。西郷隆盛の『南洲翁遺訓』にある〈命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、仕末に困るもの也〉を、丹羽さんなりに表現したもので、個人的な欲望がないから、誰に遠慮もなく言いたいことが言える立場にいられると受け取れる。

 近著『死ぬほど読書』(幻冬舎)の売れ行きが好調だ。7月に刊行後、早15万部。本が売れない時代に読書する意味を説く本が売れるというのは、不思議な現象ではある。

 「読書の習慣を大事にしてきた人たちが、読書を軽視する最近の風潮を見て、それではいけないと考えていたところに私の本が出て、『そうだ、そうだ。丹羽の考えも私と同じだ』と、改めて熟読されているのじゃないかと思いますね」

 事実、読者層は30代後半から70代の男性がほとんどで、ネット世代の10代から30代前半は少ないという。

 書店の息子に生まれ、幼いときから活字人間だった。本好きを通り越して読書狂と言ってもいい。それはこんな逸話からも分かる。

 「サラリーマンが読書できるのは通勤電車の中だけ。だから、住まいは会社まで座って通えるできるだけ遠い始発駅で探しました。最初は(京浜東北線の)大宮(さいたま市)。当時、本社は日本橋だったから。アメリカから帰国してからは(東急田園都市線の)つきみ野(神奈川県大和市)。本社が青山に移転することになったので。しかしこれは失敗だった。(家を)買った当座は始発でしたが、やがて中央林間まで延伸した。これには参りました」

 なぜこうも本にこだわるのか。先の著書でこう記している。

 〈考える力、想像する力、感じる力、無尽蔵の知識や知恵…。読書はその人の知的好奇心、そして「生きていく力」を培ってくれます〉

 実はこの書、「読書に意義を見いだせない」という大学生の新聞への投書がきっかけだった。本を読まないのは本人の勝手だが、自分の「生きていく力」をそぐことになる-。そんな忠告とともに受験や仕事に必要な本以外、目を通さない即物的な人が増えるこの国に強い危機感を抱いた。

 「官僚の忖度(そんたく)ということが問題になっています。私は官僚全てに問題があるとは全く思っていませんが、本当の意味での読書をしてきた官僚であれば、昨今言われているような発言はしないと思います。だって多くの先人が、自らに恥じるようなことは決してするなと教えているではないですか。必ず後で手痛いしっぺ返しを食らいますから」

 官僚に限らず、政治家に対しても読書不足を指摘する。

 「太平洋戦争はアメリカが欧州での戦争に参戦するきっかけをつかむために当時の国務長官ハルが、日本が絶対のめないような条件を突きつけてきたことが契機となった。今回の北朝鮮に対するトランプ大統領の対応もそういう印象が強い。しかし、行き場がなくなった北朝鮮が、かつての日本のように暴発したらどうするつもりですか。戦争となれば大量の北朝鮮難民が韓国、中国、そして日本にも押し寄せてくる。それが分かっているから中国も韓国もトランプさんを押さえにかかっている。日本はどうでしょう」

 伊藤忠時代から、直言居士で知られてきた。その直言は「干物」を自認するいま、ますます鋭くなっている。(ペン・清丸惠三郎、カメラ・寺河内美奈)

 ■丹羽宇一郎(にわ・ういちろう) 日中友好協会会長。元駐中国大使。元伊藤忠商事会長。1939年1月29日、名古屋市生まれ。78歳。62年、名古屋大学法学部を卒業、伊藤忠商事に入社。98年、同社社長。バブル崩壊に伴う巨額負債を一挙に整理し、業績をV字回復させ、辣腕が知れ渡る。会長を経て、2010年6月から12年12月まで駐中国大使。『人を育てよ 日本を救う、唯一の処方箋』(朝日新書)など著書多数。