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【部下がついてくる!「角栄流」上司の心得】恩讐を超え、敵対人物に会う勇気 (1/2ページ)

★究極の人心収攬術(3)

 田中角栄は昭和32(1957)年、第1次岸信介改造内閣で、郵政大臣として初入閣を果たした。当時39歳。明治期以来、「憲政の神様」こと尾崎咢堂(行雄)は40歳の若さで入閣した。田中も大いに“気概”を示したのだった。

 就任後の年末年始のラジオ、テレビへの出演回数は実に12回、タレント並みの忙しさで“庶民性”を売りまくった。

 また、折から86社153局が乱立して争っていた民間放送テレビ免許の申請を、一挙にNHKを含めて39社43局に絞り込む裏ワザを披露した。新聞社系の放送免許を優先したことで、メディアに自らのクサビを打ち込むという、辣腕(らつわん)ぶりも見せたのだった。

 そうした一方で、「全逓」(=旧郵政省職員らの労働組合)の春闘に絡み、幹部7人の解雇を含め、減給、戒告、訓告約2万2000人という、異例の大量処分を行った。クビを切った幹部の一人に当時、「全逓」書記長で、後に社会党代議士となる大出俊(おおいで・しゅん)がいた。

 大出は頭脳明晰(めいせき)、駆け引きも巧み、性格もさっぱりしていたことなどから、郵政省幹部からも人物として好感を持たれていたのだった。

 田中もまた、この大出を買っていた。クビは切ったが、その後、「ワシの会社へ来ないか。嫌なら秘書でどうか。とにかく、君が欲しいのだ」と執拗(しつよう)に誘いをかけたのだった。これだと目を付けた人物を取り込んでいくのも、田中の組織戦術の1つだった。

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