無口なる勇士の活動、世に知られない「努力や功績」

★桜林美佐「東日本大震災と自衛隊」

2011.05.13

 「原発に戦車が出動!」

 3月20日、メディアは大々的に報じた。がれき除去のため、白羽の矢が立ったのだ。

 また、海上自衛隊の多用途支援艦に曳航されて、米軍貸与のバージ船も放水の準備をすることになった。

 そのころ、実際の放水作業は「キリン」と呼ばれる大型アームなどの導入により、自衛隊の消防隊については「待機」の状態が続いていた。そんな時、テレビの画面にふと目をやると、

 「感動をありがとう」

 ハイパーレスキュー隊が取り上げられている。数時間ではあったが、共に支え合い涙した仲間が注目されることはうれしい。しかし、自衛隊の待機は、その後も続いていたのだ。

 「オレたち、もう終わってるのかなあ」

 何人かがうな垂れた。「待機」はニュースにはならない。しかし、隊員たちは、日に何度も起きる余震の度に緊急体制に入り、防護服に身を包み、被曝覚悟で車両に乗り込んでいた。

 戦車やバージ船も、結果的に、役に立たなかった印象もあるが、他に策なき段になったときは満を持して活用すべく、猛訓練をしていた。

 最後に頼る手段が、そこに在ることは現場の安心感にも繋がり、意味は大きい。

 「ほとんど神業だな!」

 74式戦車の瓦礫除去訓練は、いつの間にか飛躍的進歩を遂げていた。

 防護服を着て、ハッチを閉めての作業は、サウナどころではない暑さと視界不良だ。それでも潜望鏡を駆使し、車長と操縦手の絶妙の呼吸で、見事に瓦礫を脇に寄せる。

 自らの功績を披瀝することを好まない組織ゆえ、こうした努力や功績は、なかなか世に知られない。

 3号炉爆発に伴い、オフサイトセンターが県庁に移転することになった3月15日のこと。大移動の殿(しんがり)を務めた中央即応集団(CRF)の、もう1人の副司令官(当時)である今浦勇紀陸将補を乗せた車両が双葉町にさしかかると、全員が避難して誰もないはずの集落に、70代くらいだろうか、夫婦らしき姿を確認した。

 聞けば、避難バスに乗り遅れ、自家用車のガソリンもないという。

 車両は人と荷物が満載されていたが、「荷物は捨てよう」と、大半をその場に置き、2人を救って避難所まで送り届けていたことが、夫婦からの礼状で明らかになった。

 「海上保安庁には『海猿』がいるが、自衛隊は『言わざる』ばかりだ」

 誰かが言った。この無口な勇士の活動は、その後も続いた。

 ■さくらばやし・みさ 1970年、東京生まれ。日本大学芸術学部卒。フリーアナウンサー、ディレクターとしてテレビ番組を制作後、ジャーナリストに。防衛・安全保障問題を取材・執筆。震災後、防衛省に加え、被災地を何度も取材した。著書に「海をひらく−知られざる掃海部隊」「誰も語らなかった防衛産業」(並木書房)、「終わらないラブレター−祖父母たちが語る『もうひとつの戦争体験』」(PHP研究所)など。

 

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