指揮官自ら体育館に…常識を気にしない掃海部隊

★桜林美佐「東日本大震災と自衛隊」

2011.05.20

 「妊婦さんのご遺体を収容したんです。かわいそうで…」

 その若い海上自衛隊隊員は、ショックを隠せず、ずっとそのことを口にしては声を詰まらせた。

 ランドセルを背負ったままの子供の遺体を発見して、涙が止まらない隊員もいた。

 「ぶんご」艦上には多い時で7柱の遺体が安置された。隊員が手作りで設置した祭壇に線香がたかれ、果物やご飯が供えられる。その後、ヘリコプターで遺体安置所に運ばれるが、ヘリが飛び立つときは、全員が甲板に集まり、敬礼して見送った。

 日がたつにつれ、遺体の痛みは激しくなった。隊員たちも震災後、直ちに緊急出港の準備に入り、息つく間もなかった。

 行方不明者の捜索は早朝から始まるが、司令部では、その報告書作成などで、深夜までの作業となる。疲労感とともに、生存者を発見できない虚無感で、皆、言葉少なくなっていった。

 それでも翌朝には、誰もがテキパキと持ち場の任務をこなしている。

 自衛官である責務と誇りが彼らを奮い立たせていたのだ。

 被災者への生活支援も、震災発生の日から到着した艦艇により始められていた。掃海部隊は小型艦艇である特徴を生かし、リアス式海岸の入り組んだ半島や、湾の奥に点在する孤立した集落の被災者支援にあたっていた。

 「どなたかいらっしゃいませんか−」

 陸に上がり、メガホンで呼びかけているのは爆発物を処理する海のエリート、EOD(水中処分員)だった。陸上からの行方不明者捜索も行っていたのだ。被災者に出会うと、御用聞きもした。

 掃海部隊では同じ艇が毎回、同じ島を支援し、なるべく人生経験豊富なベテランが行くようにしていた。いつも違う人が来ると、島の人も同じ説明を何度もすることになるし、若い者より話しやすいだろうという配慮だった。

 「大変ですが、頑張ってください」

 支援物資の入った段ボールに若い隊員はメッセージを書いて託した。そして、自分たちが買って持っていたお菓子を集め、子供たち向けにポリ袋に小分けにした。

 「外よりも寒いな…」

 福本掃海隊群司令は、避難所の体育館に入った。足を踏み入れなければ分からない空気と温度。それを感じたかったのだ。指揮官自らそんなことをするのは、適切ではないかもしれない。しかし、この部隊に脈々と流れるのは、そんな常識を気にしない大胆なDNAだ。護衛艦乗りとはまた違う、掃海部隊ならではの流儀だった。

 群司令はメガホンを手に取った。

 ■さくらばやし・みさ 1970年、東京生まれ。日本大学芸術学部卒。フリーアナウンサー、ディレクターとしてテレビ番組を制作後、ジャーナリストに。防衛・安全保障問題を取材・執筆。震災後、防衛省に加え、被災地を何度も取材した。著書に「海をひらく−知られざる掃海部隊」「誰も語らなかった防衛産業」(並木書房)、「終わらないラブレター−祖父母たちが語る『もうひとつの戦争体験』」(PHP研究所)など。

 

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