気球広告の第1号、化粧品の中山太陽堂

2012.02.21


アドバルーン【拡大】

 ♪空にゃ今日もアドバルーン…「ああそれなのに」という歌が流行ったのは1936(昭和11)年ころ、戦前のアドバルーン最盛期だった。

 わが国のアドバルーンは、13(大正2)年に化粧品の中山太陽堂(現・クラブコスメチックス)の気球に広告をつり下げた『広告気球』が最初という。現在の方式のものは21(大正10)年、弘告堂(現・銀星アド社)の水野勝蔵が気球に広告字幕(布)を取り付けたのが初め。のちに、字幕を布からネットに代えたことで空気抵抗が減り、文字も大きくできるようになったことから急速に利用が拡大した。

 アドバルーンは36(昭和11)年の二・二六事件の鎮圧にも一役買っている。戒厳司令部は「勅命下る 軍旗に手向かふな 戒厳司令部」の字幕をつけたアドバルーンを揚げ、投降を呼びかけた。

 戦後初のアドバルーンは49年11月、東京郵政局が「お年玉付年賀郵便」と「生活安定に郵便年金」をPRしたもの。ところが、実はその前年の春、有楽町の日劇屋上に「お夏清十郎の恋」のアドバルーンが揚げられていた事実を知る人は少ない。当初は1週間の予定だったが、GHQが風船爆弾を連想させるとの理由で2日目に禁止にしてしまった。

 民間利用が許可されたのは50年9月、インドから贈られてきた象の「インデイラ」の歓迎イベントで毎日新聞社が象の形のものを上野動物園に揚げた。52年3月には日比谷の日活国際会館オープンの紅白のバルーンが大量に揚げられ、さらに翌年、電飾アドバルーン・コンクールが銀座で行われるなど、広告媒体としての人気は一気に高まった。

 64年10月10日、東京オリンピック開幕時には、全国に4万個ものアドバルーンが掲揚され来日した外国人たちの度肝を抜いた。この頃が戦後のピークだった。

 ■『企画のヒント』 

 アドバルーンは、都心などでは高い建物が障害となって目立たないことから利用は少ないということだが、上空に漂う姿はかえって目立つし、何よりも空中に浮かぶ広告としてロマンさえ感じられる。形や文字部分に工夫を加えたり、クイズの問題を掲載したりすることで、話題になりマスコミ報道に結びつく可能性も期待できる。(広告・イベント研究家 熊野卓司)

 

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