田辺城 「古今伝授」継承者・細川藤孝が関ヶ原の合戦で籠城

★田辺城

2014.01.19


田辺城本丸櫓門【拡大】

 田辺城(京都府舞鶴市)は、丹後守護であった一色氏を滅ぼした武功によって、織田信長から丹後国(京都府北部)を与えられた細川藤孝(ふじたか)が、天正7(1579)年に築いたのが始まり。

 細川氏はもとは足利将軍家に仕えた家柄で、藤孝は明智光秀(あけち・みつひで)とともに足利義昭(よしあき)と信長を結びつける役割を果たす。また、藤原定家(ていか)の歌道を受け継ぐ二条流の歌道伝承者、三条西実枝(さんじょう・にしさねき)から「古今伝授」を受け、近世歌学を大成させた当代一流の文化人であり、武道に熟達した才人でもあった。

 藤孝の嫡男、忠興(ただおき)の妻は、光秀の娘、玉(たま)で、後の細川ガラシャである。そのため、光秀は本能寺の変を起こしたとき、細川父子は自分に味方すると信じていた。ところが、藤孝は剃髪(ていはつ)して家督を忠興に譲り、羽柴(後の豊臣)秀吉に仕える。

 慶長5(1600)年、関ヶ原の合戦では、忠興は石田三成の再三の誘いを断り、徳川方(東軍)に属した。ガラシャは忠興の決意を鈍らせぬため、大坂の細川屋敷で命を絶つ。隠居していた藤孝は、自分の居城・宮津城(京都府宮津市)では、豊臣方(西軍)1万5000の大軍を防ぐことができないと考え、田辺城に籠城し待ち受けた。

 籠城は50日にもおよび、落城寸前にまで追い込まれたが、藤孝のみが継承していた和歌の秘伝「古今伝授」が戦火で失われることを恐れた後陽成天皇が仲介を買って出る。あくまで武人として開城を拒んだ藤孝であったが、最後は豊臣方に城を明け渡した。

 関ヶ原の合戦後、細川氏は加増され、豊前国(福岡県東部、大分県北部)39万石に移封になる。ちなみに東京都知事選(23日告示、2月9日投開票)への出馬を決断した細川護煕(もりひろ)元首相は、忠興の子孫にあたる。

 現在、田辺城跡は公園となり、昭和15(1940)年に2層櫓、平成4(1992)年には本丸櫓門が再建された。 =次回は八代城

所在地】京都府舞鶴市南田辺15の22
城地の種類】平城
交通アクセス】JR舞鶴線「西舞鶴駅」から徒歩約5分

 ■濱口和久(はまぐち・かずひさ) 1968年、熊本県生まれ。防衛大学校卒業。陸上自衛隊、舛添政治経済研究所、栃木市首席政策監などを経て、現在、拓殖大学客員教授、国際地政学研究所研究員。日本の城郭についての論文多数。

 

注目情報(PR)

産経デジタルサービス

産経アプリスタ

アプリやスマホの情報・レビューが満載。オススメアプリやiPhone・Androidの使いこなし術も楽しめます。

産経オンライン英会話

実践で使える英会話を習得!業界最高峰の講師がサポートします。毎日話せて月5000円《まずは無料体験へ》

サイクリスト

ツール・ド・フランスから自転車通勤、ロードバイク試乗記まで、サイクリングのあらゆる楽しみを届けます。

サンスポ予想王TV

競馬などギャンブルの予想情報を一手にまとめたサイト。充実のレース情報で、勝利馬券をゲットしましょう!