加納城 家康が直々に縄張をして築城

★加納城

2014.07.12


加納城【拡大】

 岐阜市内には2つの「岐阜城」がある。1つは、斎藤道三(どうさん)や織田信長の居城として有名な金華山に築かれた岐阜城。もう1つの岐阜城は、市街地にある平城の加納城だ。

 加納城は、文安2(1445)年に斎藤利長によって築城されたが、天文7(1538)年に廃城となっていた。

 岐阜城は、関ヶ原の合戦のときには、織田信長の孫、織田秀信が居城としていた。関ヶ原の合戦で勝利した徳川家康は、豊臣方(西軍)に属した秀信を追放(高野山に蟄居)し、慶長6(1601)年、岐阜城を破却する。このとき、この地を「岐阜」から「加納」に改名した。

 そして、家康の娘婿、奥平信昌(のぶまさ)を10万石でこの地に入封させると、縄張は家康自身が行い、近隣の大名を動員した天下普請で改めて加納城を築城する。

 加納城は、本丸、二ノ丸、三ノ丸、厩(うまや)郭、南郭などを備えた本格的城郭であった。天守台はあったが、天守は築かれず、二ノ丸に、岐阜城から移築した御三階櫓(おさんがいやぐら)が天守の代わりに建てられる。

 また、凸の字形をした出枡形(外枡形)という防備施設を本丸の正門に設けていた。この形は初期の徳川系城郭に見られる特徴で、「加納城型」とも呼ばれている。

 城下町は加納城の北から西にかけて造られ、町の北部を「中山道」が東西に通り、寛永11(1634)年には「加納宿」が置かれた。加納(岐阜)と名古屋を結ぶ「尾張街道」が町の東で中山道と交差する交通の要衝でもあった。

 加納城の歴代城主は、奥平氏の後、大久保氏、戸田氏、安藤氏と変遷し、最後の永井氏の時代に明治維新を迎える。

 御三階櫓は、享保13(1728)年に落雷で焼失すると再建されることはなかった。現在は同地に岐阜気象台がある。

 金華山麓の岐阜公園(岐阜城)にある歴史博物館に、加納城の資料や城全域の復元模型などが展示されている。 =次回は高槻城(大阪府高槻市)

 【所在地】岐阜県岐阜市加納丸の内
 【城地の種類】平城
 【交通アクセス】JR東海道本線「岐阜駅」下車、バス約10分

 ■濱口和久(はまぐち・かずひさ) 1968年、熊本県生まれ。防衛大学校卒業。陸上自衛隊、舛添政治経済研究所、栃木市首席政策監などを経て、現在、拓殖大学客員教授、国際地政学研究所研究員。日本の城郭についての論文多数。

 

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