大多喜城 家康の家臣、本多忠勝が入城

★大多喜城

2014.10.25


大多喜城【拡大】

 大多喜城(千葉県大多喜町)は大永元(1521)年、上総(かずさ)国(千葉県中部)を支配していた真里谷信清(まりやつ・のぶきよ)が築いたのが始まり。当時は根古屋(ねこや)城と呼ばれていた。

 天文13(1544)年、里見(さとみ)氏の家臣、正木時茂(ときしげ)によって、真里谷氏は城を奪われる。以後、大多喜城は正木氏の居城となり、上総国東部支配の拠点となった。

 天正18(1590)年、里見氏は、豊臣秀吉が定めた大名間の私闘を禁じた惣無事令(そうぶじれい)に違反したとして、上総国を没収される。その後、関東に移封となった徳川家康の家臣、本多忠勝(ただかつ)が大多喜城に入城する。

 忠勝はただちに蛇行する夷隅(いすみ)川で外堀を固め、本丸には3層4階天守、二ノ丸に御殿、三ノ丸には家臣の屋敷、馬場、9つの隅櫓などを配した近世城郭へと大改修を行う。

 関ヶ原の合戦後、忠勝は伊勢国(三重県の北中部、愛知県弥富市の一部、愛知県愛西市の一部、岐阜県海津市の一部)桑名に転封となり、忠勝の次男、忠朝(ただとも)が大多喜城主となる。忠朝が、元和元(1615)年の大坂夏の陣で戦死すると、甥の本多政朝(まさとも)が跡を継いだ。

 その後は、阿部氏、青山氏、稲垣氏が大多喜城主となり、元禄16(1703)年、大河内松平正久が入城すると、明治維新まで城主を務める。

 天守は天保13(1842)年に焼失すると再建されることはなく、天守の代わりに「神殿」と称する建物が建てられていた。

 現在、本丸跡に建つ天守は、昭和50(1975)年に復元・再建されたものだ。内部には千葉県立中央博物館大多喜城分館(旧千葉県立総南博物館)があり、房総の歴史資料や文化財が展示されている。遺構としては、土塁や空堀、二ノ丸跡には二ノ丸御殿の裏門だった薬医門、本多忠勝が掘らせた大井戸が残る。 =次回は秋月城(福岡県朝倉市)

 【所在地】千葉県夷隅郡大多喜町大多喜481
 【城地の種類】平山城
 【交通アクセス】いすみ鉄道「大多喜駅」下車、徒歩約15分

 ■濱口和久(はまぐち・かずひさ) 1968年、熊本県生まれ。防衛大学校卒業。陸上自衛隊、舛添政治経済研究所、栃木市首席政策監などを経て、現在、拓殖大学客員教授、国際地政学研究所研究員。日本の城郭についての論文多数。

 

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