「戦後70年」の今年は、東京大空襲から70年の年でもある。1945(昭和20)年3月10日未明、深夜0時すぎから約2時間半の間に、米軍のB29戦略爆撃機約300機の大編隊が、東京の東部下町一帯に焼夷(しょうい)弾を用いた大規模爆撃をおこなった。
この空襲で26万8000戸の家屋が焼失し、10万人が焼死、行方不明者数万人、100万人が家を失った。私の生まれ育った東京・深川は、下町人情あふれる地域だった。と同時に、東京でも一番の人口密集地帯で、火に弱い木造の住宅、長屋が多かった。
この東京大空襲で、私は両親と妹3人の5人を亡くした。翌年1月、1人だけ生き残った姉が、やっとの思いで私のいる新潟の疎開先を訪れて、このことを伝えてくれた。
姉の話によると−。
町会の防空班長を務めた父は、空襲が始まると、町内に残っている人がいないかと見回っていたという。火の手が迫っても、母は「お父さんと落ち合う約束だから」と待ち合わせ場所から動かなかった。それで逃げるのが遅れたようだ。
しばらくして、父が待ち合わせの場所に追いつき、家族一緒に隅田川と反対の菊川橋方面に逃げた。しかし、手遅れだった。菊川橋は橋の反対側から逃げてきた人たちとぶつかって大混乱していた。
妹の1人がはぐれてしまい、父が探しに行こうとした瞬間、橋の上を炎が襲いかかり、みんなの着ているものや頭巾が燃え出したという。