甲斐国(山梨県)を治めていた武田氏に仕えた保科正直は、武田氏が没落すると、徳川氏の家臣として召し抱えられる。正直は、天正12(1584)年、徳川家康の妹、多却(たけ)姫を正室に迎える。翌年には、栄(えい)姫が生まれた。
慶長5(1600)年6月6日、栄姫は伯父である家康の養女となると、黒田長政と結婚する。栄姫は、家康から化粧料として豊後(ぶんご)国(宇佐市、中津市を除く大分県全域)玖珠(くす)郡領内に1000石をもらい受けた。
せっかくのお祝いの日だったが、大坂城(大阪市中央区)で、会津の上杉氏討伐の評定が開かれた日と重なった。長政はすぐに家康に従軍して会津に向かうことになる。
長政は、栄姫を正室として迎える前、蜂須賀小六(ころく)の娘、糸(いと)姫を正室としていた。15年間の結婚生活で、2人の間に男子が生まれなかったこともあり、長政は糸姫と離縁して、栄姫を正室として迎えた。
徳川氏との関係を深めた方が黒田氏にとって得策だと長政は考えたのだろう。実際、黒田氏は徳川氏と親戚関係になったこことで、盤石な地位を築いていく。
一方、糸姫の実家である蜂須賀氏は面子(めんつ)が丸潰れとなった。黒田氏と蜂須賀氏は絶交状態となる。
長政と栄姫が結婚したのは、まさに天下分け目の「関ケ原の合戦」の年である。合戦の前、豊臣方(西軍)は、大坂に残る大名たちの妻女を人質にしようとした。