松前城 防備の手薄な背後から攻められ…わずか数時間で落城 (1/2ページ)

★松前城

2017.02.19

松前城
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 松前藩の石高は、表向きは1万石格の大名だが、蝦夷地(北海道)は稲作不適の地であり、本州との交易管理が藩の財政基盤であった。アイヌとの戦いも終息し、外部からの攻撃も想定されなかった。松前の地に簡単な防備の館(福山館)だけで、200年を平穏に過ごしていた。

 ところが、幕末になると状況が一変する。日本近海には外国船が来航するようになり、徳川幕府は海防強化の必要性に迫られる。特に、蝦夷地にはロシア船がたびたび姿を見せるようになる。松前藩はロシアの南下に備える最前線の警備を担うことになる。

 嘉永2(1849)年、幕府は北方警備を目的に、松前崇広(たかひろ)に新城の築城を命じる。

 築城計画の際、地形的に要害となりうる箱館の臥牛山(がぎゅうさん=函館山)に築城すべきだという意見もあった。だが、城下の商人が「城を移転すると松前港が寂れてしまう」と反論した。移転の予算が少ないこともあり、最終的には福山館を拡張する方法で落ち着く。工費の多くは、松前の商人の献金によって賄われた。

 松前城は嘉永3(50)年、天守代用の3層3階の櫓を持つ、和式築城最後の城として、高崎藩から招いた兵学者、市川一学(いちがく)の縄張で完成する。土居や石土居には「折」や「歪」をうまく取り入れ、城門には隠郭などが造られた。さらに、複雑に屈曲した城壁と松前湾に面した砲台群(7基の砲台と25門の大砲)を備えた最新鋭の城郭であった。

 
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