終戦間際に作り上げたジェットエンジン

2014.06.24


石川島播磨重工業(現IHI)社長を務めた土光敏夫氏【拡大】

 戦後、わが国のジェットエンジン事業を立ち上げた土光敏夫氏(現在のIHI、旧石川島播磨重工業社長)の胸中には、終戦間際の強烈な記憶があった。

 戦前の日本は、レシプロエンジンしか開発しておらず、全く原理の異なるジェットエンジンを作り出すことは、並大抵のことではなかった。だが、終戦の直前、わが国は死にもの狂いでこれを、ほとんど自力で作り上げているのである。

 「英国とドイツに続け!」

 日本は当時、ジェットエンジンを実用化させていたドイツから資料を入手し、製造に着手した。戦局が日増しに悪化する中、国土を襲い来る敵機を素早く迎え撃つためにはジェット戦闘機が必要だったのだ。まさに国の存亡がかかっていた。

 1944年4月、ドイツの駐在武官であった巌谷英一(いわや・えいいち)海軍技術中佐は、ジェット戦闘機の図面の写真を携えて伊号29潜水艦に乗り込み日本に向け出港する。そして、度重なる攻撃をかいくぐり奇跡的に無事に到着した。

 しかし、これはあくまでも、メッサーシュミットなどのエンジンの20分の1に縮尺したフィルムや、実物を見学した際のノートにすぎなかった。

 その後、詳細な資料は別の潜水艦に搭載して輸送を試みたが、バシー海峡で米潜水艦の攻撃を受け、撃沈してしまう。

 ところがこの時、開発の中心人物である種子島時休(たねがしま・ときやす)機関中佐は「1枚の写真で十分だった。これを見た瞬間、ジェットエンジンの全部が了解できた」と回顧している。資料やデータより、何としても作り上げるという熱意だけがまさに原動力だったのだ。

 僅かな写真をもとに、急ピッチで進められたジェットエンジン開発は、陸海軍の壁も取っ払っての協定が結ばれた。やがてジェットエンジン「ネ20」が誕生する。「ネ」は燃焼の「ね」から取った。

 折しも、そのころから米軍機による空襲が激しさを増し、設計陣は郊外への疎開を始めていた。そのため、日本初のジェットエンジンは養蚕小屋で生まれたという。

 海軍の「橘花」に搭載された「ネ20」は、終戦の1週間ほど前に12分間の試験飛行に成功する。一方、陸軍では、米国による本土攻撃に抗するための迎撃戦闘機「火龍」用のジェットエンジン「ネ130」の完成を目指していた。

 一歩進んだ海軍が2度目の飛行試験をしようとし、それに追いつかんと陸軍が奮闘していたとき、日本は8月15日を迎えることになったのである。

 ■桜林美佐(さくらばやし・みさ) 1970年、東京都生まれ。日本大学芸術学部卒。フリーアナウンサー、ディレクターとしてテレビ番組を制作後、ジャーナリストに。防衛・安全保障問題を取材・執筆。著書に「日本に自衛隊がいてよかった」(産経新聞出版)、「武器輸出だけでは防衛産業は守れない」(並木書房)など。

 

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