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【山崎武司 メッタ斬り 生涯ジャイアン】清宮クンくらいの存在なら進路の早期公表も“義務” 決心ついたらスッキリ宣言して (1/2ページ)

 今年は例年以上に高校野球が盛り上がりました。夏の甲子園はもちろん、その後カナダで行われた「U-18W杯」も注目されました。

 いうまでもなく、通称「甲子園に行く」ことは、高校球児とって最大の目標です。辛いことがあったり、血ヘドを吐く思いで練習をして、結果的に出られないのは残念ですよね。

 僕だって、甲子園に出たかった。残念ながら高校3年間(愛工大名電)、全国大会には縁がありませんでした。1987年のプロ入り同期に、近鉄にドラフト2位で入団した天理高の中村良二(現同校監督)がいました。プロ1年目からウエスタン・リーグで活躍し「ミスター・ウエスタン」と呼ばれた彼を、「コイツが3度甲子園に出た天理の中村か」と意識しました。

 ヤクルトで外野手として活躍した飯田哲也も同期。彼も拓大紅陵高(千葉)で甲子園に出場していました。「すぐに1軍に行くのかな」と思ったりしたものです。

 僕は甲子園で名を売ることができなかった。でもだからこそ、「“甲子園組”のやつらには負けたくない」という強い思いがありました。

 高校通算56本塁打でプロ入りし、直球に対しては絶対の自信があったのですが、すぐに“プロの洗礼”を浴びました。最初のキャンプは2軍でしたが、すでに1軍でバリバリ投げていた宮下昌己さんがシート打撃に登板することに。「まっすぐしか投げないから」と言うので、「よし、打ってやる」と意気込んで構えました。

 ところが、かすりもしない。「ヤバイところに来たな。これがプロの世界か」と驚きました。首脳陣には「プロの世界はそんなに甘いもんじゃないよ」と僕の鼻っ柱を折ろうという意図があったのかもしれませんね。

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