“銀座の盗塁王”柴田勲も女房にゃ勝てない

2009.09.16


“銀座の盗塁王”といわれたこともある柴田。左は長男を抱く恵美子夫人=昭和47年8月撮影【拡大】

 「ゾウやん(筆者の愛称)、東京へ着いたら社に上がるの?」

 柴田勲がそう話しかけてきたのは、V9を達成した昭和48年の5月17日、広島相手の東北遠征が終わり、巨人の選手を乗せた列車が間もなく上野駅に進入しようとしているときだった。郡山、仙台、盛岡と転戦して1勝2敗。チームは中日に5ゲームの差をつけられての5位。早くも「V9はピンチ」と囁かれ出したころだった。

 「時間があれば飲みに行かない?」という柴田の思いは伝わってきた。筆者の方もすでに現地から記事は本社に送稿済み。二つ返事でOKを出すと、「頼みがあるんだ。店に着いたら、うちへ電話して、一緒に飲みに行くことを女房に伝えてほしい」ということだった。

 恵美子夫人に自分から電話ができないのだろうか? と思った瞬間、数日前に牧野茂コーチの発した言葉を思いだして合点がいった。

 「ばかだよ、勲のやつ。婚約時代からフィアンセを連れて銀座を飲み歩くなんて…。勲ちゃん、勲ちゃんとホステスから騒がれるのを見たら、いつもこんな雰囲気の中で飲んでいるんだ…と、考えるに決まっているじゃないか」

 休みの日、「飲みに行ってくるよ」と新妻に言うと、「行ってらっしゃい」といいながら、夫人は涙ぐんでしまうという。これじゃあ、遊び好きの男もたまらない。ところが、筆者はなぜか夫人には信用があった。理由のひとつは、結婚当時、夫人の父親が産経新聞系列の「サンケイ・ハウジングセンター」の部長だったことも影響していたのかもしれない。

 45年12月7日、球団から突然、「本日、柴田選手の婚約発表を行います」というアナウンスがあり、「相手は何者?」と番記者が騒ぎ立てる中、小野陽章広報担当が「ゾウやんの会社に関係がある女性」と耳打ちしてくれたが、後の祭りだった。

 ふたりが知り合ったのは43年暮れのこと。東京・新橋のフグ料理屋だったが、同伴した夫人の母・汀子さんが柴田に一目惚れしたのが交際のきっかけとなった。汀子さんも娘については「箱入り娘でした」と明かしている。

 当時の柴田は飛ぶ鳥を落とす勢いだった。常勝巨人軍の1番打者として君臨。“赤い手袋”が代名詞だった。グラウンド以外でも、まだカラオケがない時代に「ミスタージャイアンツ/勝利の旗」の主題歌をレコーディング。46年にも「巨人の星」、自ら作詞した「多摩川ブルース」「巨人の歌」「霧にむせぶ夜」など、自慢の美声で次々に吹き込んでいる。しかも会話も面白いからモテるのは当たり前。歌手の伊東ゆかりと浮名を流すなど、婚約当時は「花のチョンガー」を謳歌していた。

 一方の恵美子夫人は、23年3月生まれで、婚約当時は22歳。学習院高等科から学習院大学文学部英文科の卒業。祖父の広川弘禅氏は農林大臣を勤めたこともある政治家だ。趣味はお茶、生け花、お菓子作りというお嬢様育ち。そんな彼女がいきなりネオン街に連れ出され、しかも自分の婚約者がホステスからもてはやされるのを見たら、穏やかでないのは当然のことだった。

 別の日に、亭主のモテぶりが話題となったことがある。このとき、恵美子さんは「気にならないといえば、ウソになります。でも、あのころはまだ結婚していませんでしたから、私がとやかくいうのはかえって不自然です」と感想をもらしていた。さすがの柴田も夫人の目の潤みは苦手のようで、遠征帰りのこのときのように筆者の手を借りることが何度かあったものである。

 ■蔵田 紘(くらた・ひろし) 昭和15年、東京・渋谷に生まれる。サンケイスポーツ発刊直前の38年1月に産経新聞社入社。サンケイスポーツ、夕刊フジで主に野球、競馬記者として活躍した。現在、スポーツライターとしてフリーで活動している。

 

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