「8時半の男」宮田征典

2009.10.07


「8時半の男」として名を馳せた宮田征典投手(写真は昭和44年3月23日)【拡大】

 昭和40年12月、東京・神田三崎町にあった宮田征典投手宅を訪れた。「20勝投手のオフ」を取材しようとアポなしで押しかけたところ、宮田はちょうどショルダーバッグを肩にかけ、北風の中、外出するところだった。こちらにすれば、絶妙のタイミング。

 「良かったら、一緒にどう?」という誘いにのって同行したところが、なんと都内の「青山墓地」だった。たまたま筆者の先祖の墓もその片隅にあったので、それを告げると、彼はひどく喜んで、「案内しろ」と言う。

 墓前に立つと、次の瞬間、彼はショルダーバッグから和紙と墨汁、女性が化粧に使うパフのようなものなどを取り出し始めた。わが家の家紋は「左三つ巴」なのだが、彼は墓に彫られた家紋に和紙を当てると、裏から墨汁を塗り、パフで優しくなでたり、たたいたり。これが彼の何よりの趣味、家紋の拓本だった。

 入社2〜3年の若い筆者には、こんな趣味もあるのか…と、新鮮というか、むしろ奇異にさえ感じられた。いずれにせよこの一件で、彼とは親しくさせてもらうことができるようになったのだから、収穫ではあった。

 映画俳優にしたいような端正な顔。群馬県下で一番の進学校である前橋高出身も当然と思える頭の回転の速さ。よく冗談で「野球選手にしておくのはもったいない」といって、本音まじりに冷やかしたものである。高校卒業後は日大に進学。37年に巨人入りしたが、野球に関しては2つの欠点があった。

 ひとつはコントロールの悪さ。自他共に認める弱点を矯正するため、多摩川グラウンドの金網に直径40センチほどの穴を開けたネットを張り、速球や決め球の縦に割れるカーブをその穴を目がけて投げまくったりしていた。ほとんど穴に入るようになると、今度はボールを穴にかすめさせる練習へと進歩。後日、「コントロールの良い投手」といわれるようになったのも、この苦労が基盤になっている。

 もうひとつの欠点。これは大学時代からのものだった。発作性心臓頻脈症のため、100球を超えるピッチングができない。「先発完投」「中3日登板」が当たり前の時代だから、これをどう克服するかは、本人にとってもチームにとっても大きな課題だった。

 担当の藤田元司コーチも悩んだが、本人と相談の末、結論は「リリーフ専門職」で意見が一致した。リリーフといっても、現在のように「中継ぎ」「抑え」などと分業されていない時代。先発投手が打ち込まれた敗戦濃厚の場面に限って登板するくらいなものだったから、常識では考えられない配置転換だったといえる。

 入団した37年から4年間は、ひとけたの勝ち星だったが、ついに40年に花が開く。リードしている場面での登板を任されるようになったのだ。そのとき、スコアボードの大時計が午後8時半を指していることが多いのに気付いたのが、場内アナウンスをしていた務台鶴さん。

 「8時半ごろの登板がなぜか多いですね」と口にしたのが、実は「8時半の男」の誕生秘話。先発投手が限界に達したとき、リリーフカーに乗ってマウンドへ。ストレートと縦割りカーブで相手打者をきりきり舞させると、何事もなかったかようなクールな表情でダッグアウトに戻っていく。女性ファンでなくても、しびれてしまうかっこよさだった。

 太く、短くの典型。心臓だけでなく大学時代から腰部の神経痛を持病とし、41年6月には風邪をこじらせ広島と札幌の遠征に不参加したが、駿河台の日大病院で精密検査をしたところ「急性肝炎」と診断された。さらにひじ痛、肩痛、痔(じ)、右ひざ打撲…。まるで、けがのデパートのようだった。

 0勝に終わった44年12月9日夜、宮田は世田谷・野沢の川上邸を訪れ、監督から来季の戦力に入っていないことを確認すると、「十分な働きができなくなった男が過去の実績だけで残っても、監督もやりづらいでしょう」と言って、その場でユニホームを脱ぐことを申し入れた。

 引退後は巨人、日本ハム、西武、中日などでコーチをやったが、平成18年7月13日午後2時11分、肝不全のため故郷の前橋市の病院で死去した。66歳だった。

 ■蔵田 紘(くらた・ひろし) 昭和15年、東京・渋谷に生まれる。サンケイスポーツ発刊直前の38年1月に産経新聞社入社。サンケイスポーツ、夕刊フジで主に野球、競馬記者として活躍した。現在、スポーツライターとしてフリーで活動している。

 

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