【アンコールV9巨人】こだわらない天才・高倉照幸

戦力外通告にも何食わぬ顔

2009.11.11


西鉄黄金時代の切り込み隊長、高倉【拡大】

 「巨人のユニホームを着ることになったので、よろしくな!」

 昭和41年12月、握手を求めてグイッと差し出された腕の太さがやたら印象に残っている。公称は1メートル72、75キロだが、第一印象はダルマ。大きく突き出た腹と、メガネの奥の細い目が特徴的だった。

 高倉照幸選手との初対面がこれだった。14年間過ごした西鉄と決別しての巨人入り。5番不在に泣く巨人が、のどから手が出るほど欲しかった男だ。31年から3年連続巨人を破って日本一になった西鉄黄金時代の不動の1番打者。体形に似合わず俊足を売り物にしていた。誰がつけたか、“キャップ=切り込み隊長”がニックネームだった。

 福岡から東京への引越しがようやく落ち着いた42年の1月、アポをとったうえで、高倉家を訪れた。「すぐ戻ってくるから…」とのことで、本人は不在。「どうぞ、おあがりになって、お待ちください」との邦子夫人の言葉に甘えて、応接間に通されたとき、たまたまトイレを借りたのだが、入ってみて驚いた。トイレの壁2面に雑誌や写真集がすき間なく積まれていたのである。それもすべてクルマ関係の本ばかり。

 「驚いたでしょう。お酒もタバコも、ギャンブルもやらないんですが、クルマだけはご覧の通りでして…」と邦子夫人も苦笑い。「わたしと結婚してからだけでも、今のクルマが32台目。それも1台目を除いて、あとはすべて外車なんですよ」というから、2度びっくりである。「一番短かったクルマは?」との問いに「ベンツの1泊2日」というのが答えだった。

 毎年のように他チームからトレードでやってくる強打者が、ほとんどたいした成績を残せないまま去っていくのだが、高倉は違った。物事にこだわらない性格もあるのだが、もうひとつはクルマ以外に興味を持たないから、“外様”の辛さを味わうことすらなかったわけだ。

 物事にこだわらないのは、生まれつきだったようである。実家は熊本市で、父が鉄工所を経営していたこともあり、高倉は熊本工業高を志望したが、願書を出しに行ったら、「2時間前に締め切りました」とのこと。高倉は落胆もせず、「それなら…」というわけで、熊本商業高に切り替えてしまった。

 ふちなしのメガネがトレードマークだが、こんなエピソードが残っている。

 全盛時代の37年、たまたま友人の家を訪れたときのこと。壁に貼ってあった視力検査表を見つけると、遊び半分にしゃもじを使って右目、左目を検査した。なんと完璧な視力だったが、表の下にある乱視用の図では、はっきり「乱視」と答えが出てしまった。と、その帰り道、メガネ店に飛び込むと、ドイツ製の7万円もするメガネを躊躇なく買ったのである。

 この踏ん切りの良さは、度々グラウンドでも発揮された。39年のオールスター第1戦で4打数4安打した高倉は、続く第2戦(中日球場)の1回表、バッキーが投じたシュートを胸部に受けた。医師の診断では第6、第7肋骨の亀裂骨折で全治1カ月の重傷。そして翌40年7月19日、後楽園でのオールスター第1戦。1回表の1死後、再びバッキーが投げた必殺の内角シュートを、今度は鮮やかにライナーで左前に持っていった。前年と同じシチュエーション。普通の打者なら、恐怖心にとらわれても不思議ではない。しかし、物事にこだわらない高倉には、怒りも恐怖心もなかったのである。

 そんな高倉に大きな転機が訪れる。43年のシーズン終了後、「もう見切り時」と判断した巨人が「現役引退、コーチ兼スカウト」を打診してきたが、高倉はその好条件に固執せず、44年にヤクルトへ移籍。芽が出ないまま2年で現役を引退した。46年にTBSの解説者になったが、これもわずか1年でマイクの前から去っている。その後、どんな道を歩いていたのか、いろいろな野球人に尋ねても消息は知れなかったが、福岡県内で少年野球の指導者として活躍中だとの便りが最近になって耳に届いた。物事にこだわらない男も、野球の世界からは足を洗えないようだ。

 ■蔵田紘(くらた・ひろし) 昭和15年、東京・渋谷に生まれる。サンケイスポーツ発刊直前の38年1月に産経新聞社入社。サンケイスポーツ、夕刊フジで主に野球、競馬記者として活躍した。現在、スポーツライターとしてフリーで活動している。

 

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