今から30有余年前。昭和50年3月23日に後楽園球場で巨人の川上哲治監督の引退試合が挙行された。14年間でV9をはさんでリーグ優勝11回、日本シリーズを無敗で乗り切った川上さんは、まさに日本一の監督だった。3月23日は川上さんの誕生日であり、巨人サイドの配慮のほどが痛感された1日だった。
駆け出しのG番記者だった小生は、試合の途中、息をのむシーンに出くわした。
巨人の3回の攻撃のときだ。2死一、二塁で二塁走者は王だった。王は上田の中前安打で三塁を勢いよく回った。その途端、王はスピードを緩めてケンケンを始めた。本塁は遠い。三塁に戻ることも容易でない。返球は内野手に来ている。痛々しい王の表情は、満員の巨人ファンの悲鳴を呼んだ。
この年の王の体調は、前年までと別人になっているのを番記者たち全員が知っていた。2月の宮崎キャンプは初日から数日間も雨にたたられた。室内練習場で打つことに専心したが、下半身強化から体づくりに入る王の例年とは明らかに違っていた。3月1日に4度目のベロビーチキャンプに向かって渡米することが決まっていたのだ。
宮崎での終盤、王は自ら話し始めた。
「こんなに長く雨が降るとはねえ。風邪をひいた選手も多かった。ボクはそれほどではなかったが、下半身強化が大幅に遅れているよ。ましてボクのフォームは一本足だから、左足が満足に鍛えられなかったのには参ったよ」
ベロビーチから帰国後、3日ほどした19日、王は多摩川グラウンドにやって来た。体調はベストの状態に戻ったかと注目したが、素人目にも不安を強く感じた。若手投手の投球を35球打ったが、サク越えは1本もなかった。
王にそっと質問してみた。「左足に不安があるから、右足への移動が早くなるように見えるんですが…」
王はうなずいてから、こう言った。
「また左足をやっちゃったんだ。だから今から医者に行くよ」と。向かった先は接骨師の吉田増蔵先生の自宅だった。
数人の記者が駆けつけ治療する部屋に上げてもらった。パンツ姿の王の前で先生は手元に置いた一升ビンから酒を口にふくんでは患部に吹きかけてマッサージをしていた。「1週間はベーラン(ベースランニング)はダメだぞ」の注意に番記者たちは驚いたが、王は笑いながら任せていた。
ベーランはダメということは出場禁止ということだ。その4日後に予定されている川上さんの引退試合には出るな、ということではないか。それでいて王が強行出場に踏み切ったのは、川上さんへの感謝の表れだろう。
50年の王の本塁打は33本だ。田淵の43本、シピンの34本に次いでホプキンスと同数だった。毎年のように4月からエンジン全開で飛び立つ王が4月が2本とは寂しすぎた。だが翌年からの王は49本、50本と何事もなかったかのようにホームランを量産した。
33本のホームランは並の打者なら万々歳だろう。しかし打ったのは王だ。前後の年にともに49本を打っているのだ。左足を痛めたのが致命傷だと判断する人が多いと思う。確かに直接はそれが的中だろう。しかし、ONのNが現役を退き、川上さんの引退試合を“申し訳ないですが…”と頭を下げることは王には絶対できないことだ。
それほど人に対する王の優しさを痛感した34年前の春のことであった。
■阿部 彰英(あべ・あきひで) 1941年、埼玉県川越市生まれ。昭和30年代後半は読売新聞社発行の「週刊読売スポーツ」でプロ野球記事を中心に活動。新宿御苑前にあった王選手の実家が営む中華料理店には再三足を運んで両親から取材。同40年に東京中日スポーツ入社。東映、大洋、巨人などを担当して現在に至る。
