【アンコールV9巨人】記憶に残るバイプレーヤー槌田の代打満塁本塁打

2009.12.09


昭和41年12月、立大から巨人入団が決まり、正力亨オーナー(当時)から激励される槌田誠(右)。記憶に残るバイプレーヤーだった【拡大】

 「おーい、ツチーッ!」という筆者の声に、手にしていた新聞から視線を上げ、うれしそうに手を振ってくる。ユニホームを脱いだあと、槌田(つちだ)は飲食業に道を求めた。東京・四谷3丁目の交差点。いろいろな取材でここを通ることが多く、車の中から槌田に声をかけるのである。いつも客のいないカウンターで、槌田はボーッとしているように見えた。

 立教大時代の昭和42年春、東京六大学史上2人目の三冠王に輝いた実績とは裏腹に、プロ入り後は苦難の道を歩んでいたようだった。

 「巨人は、なかなかひと休みさせてくれないなぁ」と森昌彦が冗談半分、本音半分でもらしたのは昭和41年11月のドラフト会議当日だった。なぜなら巨人は、「1位指名」と目されていた日本石油のエース、平松政次投手を蹴り、その年の春季リーグ戦で三冠王に輝いた立教大の槌田誠捕手を指名したからである。森は34年からレギュラーの座を獲得したが、打撃の弱さがあり、首脳陣の全幅の信頼はもらえていなかった。

 38年には慶応大から大橋勲を、40年には市立神港高から吉田孝司を、42年には槌田、さらに中京商高から矢沢正を、45年には東京六大学の首位打者、早大・阿野鉱二を…。毎年のように高校、大学の実力派捕手を補強し続けたのだから、森がぐちるのも無理はない。

 だが森は、すべての刺客を蹴散らした。川上哲治が昭和13年から21年間、王貞治が34年から21年間。「巨人の一塁手はふたりで42年間」とよく言われるが、どっこい、森だって激務といわれる捕手の座を15年間も独占していたのである。

 このあおりをもろに受けてしまったひとりが槌田だった。そんな槌田も、一度だけスポットライトを浴びたことがある。ルーキーだった42年6月6日の大洋戦(川崎球場)。9回表、そのシーズン初の完封負けを目前にして、3塁側巨人ベンチはまるで通夜のように静かだった。川上監督はいつも通り後列の長いすに腰を掛け、小さく貧乏ゆすりを繰り返していた。

 そのとき、突然大きなだみ声が響き渡った。「行こうぜ、高倉さん。行こう! 行こう!」。開幕から2軍生活で、3日前に1軍に上がってきたばかり。まだ1本の安打すら打っていないルーキーが発した熱気。ベンチ前列から体を乗り出すようにして、槌田がこの回の先頭打者、高倉に叫んでいた。このひと声にベンチがよみがえった。誰もがいっせいに何かを叫び始めた。

 敗色濃厚ではあるが、槌田のこの闘志が川上監督に「宮田の代打・槌田」を決心させた。満塁。自身プロ入り3打席目の舞台はこうして巡ってきた。急いでベンチ裏で素振りをしての打席。大洋・森中力投手のストレートは、ライナーで左中間席に飛びこんで行った。

 「まぐれですよ。でも、一本打ちたかった。学生時代から通じて満塁ホームランなんて初めて。しかも、代打でなんて…」

 金田正一投手に「こら、負けたときはもっと悲しそうな顔をしろ!」と、冗談まじりでカミナリを落とされても、笑顔は消えなかった。

 インタビューのあと、時計を見て槌田はあわてた。「あっ、明日は東京とのイースタン戦があるんだ。川崎に間に合うかな?」

 習慣で、2軍戦に出場するつもりだったようだ。そばにいた高橋一三投手が教えてやった。「行かなくっていいんです。あしたは多摩川で練習ですよ」−。

 “ほら吹きクレー”のニックネームで人気者になったが、レギュラーの座は遠く、52年にヤクルトへ移籍。1年で現役を引退し、53年から2年間、日本ハムのバッテリーコーチ補佐を務めた。平成11年、胃がんのため55歳の若さで鬼籍に。記憶に色濃い脇役だった。

 ■蔵田 紘(くらた・ひろし) 昭和15年、東京・渋谷に生まれる。サンケイスポーツ発刊直前の38年1月に産経新聞社入社。サンケイスポーツ、夕刊フジで主に野球、競馬記者として活躍した。現在、スポーツライターとしてフリーで活動している。

 

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