【球談徒然】巨人ドラ1・湯口敏彦氏の急逝事件

2010.05.17


急逝した湯口投手の棺と家族。“湯口事件”は衝撃的だった【拡大】

 その年、川上哲治監督の巨人は、前人未到の9連覇を目指していた。1973(昭和48)年の3月22日。開幕を前にしたオープン戦で、担当3年目の私は関西方面に出張していた。

 大阪・梅田の和風旅館で夕食を終えた直後、東京のデスクから電話が入った。「湯口が死んだという情報が流れている。なんとか、裏が取れないかね」と−。

 湯口敏彦は70年のドラフト1位指名で巨人に入団した。身長180センチの大型左腕はこの年、甲子園に春夏連続出場し、夏はセンバツ優勝の箕島を破るなどベスト4に食い込んだ。野球記者になって2年間、アマチュアを担当した私は、湯口のいた岐阜短大付属高や岐阜県郡上郡白鳥町(当時)の実家を何度も訪問した。

 デスクの依頼を受けてすぐ、実家の父親・昌範氏に電話した。「急死したという連絡が入りました。敏彦(の遺体)はいま、こちら(実家)に向かっています」と父親は無念そうに話した。

 夜行列車に飛び乗り、岐阜県の実家を目指した。午前2時過ぎ、岐阜駅に着くとタクシーを飛ばした。実家では昌範さんと母親・ふささん、親戚らが一睡もせず一夜を過ごしていた。間もなく遺体が到着した。8畳間に安置された亡きがらは、胸板から首筋にかけ、紫色の死班が広がっていた。「ひどい。ひどすぎる」とうめく昌範さん。ふささんは「敏ぼう−」と叫んで泣き伏した。

 湯口の叔母・夏恵さんは22日午後、東京・新宿区の清和病院に入院中の湯口を見舞った。彼は前年、ファン感謝デーの紅白戦に登板。四球を連発し、めった打ちされた。川上監督や中尾2軍監督から「2年間、何をやってきたんだ」と叱責された。これを苦に病んだ湯口は、心身のバランスを失い、精神病院へ通うようになった。2月中旬、2軍都城キャンプに合流したものの翌日に緊急帰京。清和病院に再入院した。

 夏恵さんはそんな湯口を励まそうと、ほぼ1日置きに見舞った。22日に訪れた時、湯口は元気だった。夏恵さんは安心して帰宅した。それから1時間もたたないうちに、急死を知らされた。叔母と別れた湯口は夕食を取ったあと心臓発作を起こし、パジャマ姿で床に倒れていたという。

 不審死報道も流れた「湯口急逝事件」。今日のように精神医療が発達し、情報がオープンになっていれば防げていたかもしれない。当時、精神障害はタブー視され、球団もひた隠しに隠した。これが返って、湯口の「心の病」を悪化させた。

 湯口と入団同期の淡口憲治(58)=現ヤクルトコーチ=は、こう振り返る。「寮では同室だった。奥飛騨の山育ちで、おおらかでお人よし。そんな子が厳しい勝負の世界に飛び込んで、徐々に心を弱らせていった」。

 高卒(兵庫・三田学園)ルーキーの淡口は、1年目から代打などで5試合出場。ベンチで川上監督の真横に座るなど、強心臓の持ち主と騒がれた。「あれはサイン伝達係をやらされたんです。監督のサインを僕がいろんなしぐさで中継した。でも監督の側にいると勉強になりました」と淡口。あの王貞治、長嶋茂雄らが監督に呼びつけられ、打撃指導を受ける。目の当たりにした淡口は、自分の肥やしにして成長していった。

 湯口と淡口。私は2人を高校時代から密着マークしていた。学校と実家も数回訪問した。そして、2人が巨人入団と同時にアマチュアから巨人担当になった。ON砲の追っかけに忙しく2ルーキーの動静には無頓着。そんなある日、湯口はわずか20歳で野球人生の幕を閉じた。

 ショックを受けた同期の淡口だが、持ち前の心身のタフさで克服。巨人、近鉄で現役19年、コーチとして21年と40年間もプロのユニホームを着続けている。人生は運、不運だけでは片付けられない。

 ■佐々木 紘一(ささき・こういち) 1943年、神奈川県川崎市生まれ。都立九段(現・千代田区立九段中等教育学校)−早大文学部卒。高校時代はバレーボール部主将で、都立勢として都大会ベスト16の快挙を達成した。大学では中国語(マージャン)と神宮球場通い(東京6大学)に熱中した。68年、日刊スポーツ新聞社に入社。地方部長、編集局次長を歴任する。現在はフリーライター。

 

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