一度もグラウンドに立つことなく去った蔭山監督

2010.11.08

 その朝、私は「今日は忙しくなるぞ」と、いつもよりも早く9時過ぎに会社に顔を出した。その途端、総務部の女性職員が「南海の蔭山さんが亡くなったそうよ」と、叫ぶように告げた。

 昭和40(1965)年11月17日のことである。この日は、初めての新人選択(ドラフト)会議が東京の日生会館で行われる予定だった。また、20年間の南海監督を辞任して在京球団入りを発表する鶴岡一人監督が上京する日でもあった。

 南海はこの年の日本シリーズで、巨人に1勝4敗と完敗した。鶴岡監督は辞意を固め、11月6日に発表した。このときすでに、蔭山和夫コーチも責任を感じて辞表を提出していたので、後任をめぐって大騒ぎになった。11月8日に南海本社は鶴岡監督の退団を正式に認め、これを機に蔭山説得が始まった。

 ストーブリーグとしては、鶴岡監督の去就をめぐって球界あげての話題となった。永田雅一東京(現ロッテ)オーナー、水野茂夫サンケイ(現ヤクルト)オーナーが、11日には、ともに大阪入りして鶴岡監督と直接会って口説いた。東京か、サンケイか、大物監督の動向を、全国の野球ファンは注目していた。このビッグニュースと並行して動いていた蔭山監督の誕生劇は複雑をきわめた。

 南海から離れた鶴岡監督が説得役となり、8、9日と二者会談を重ねて精力的に動いた。蔭山コーチは辞意を撤回したが、監督受諾にあたって条件を提出した。内容はもちろん明らかになっていないが、常識的なものであったといわれる。フロントのバックアップ、球団・チーム体制の刷新、監督の契約方式、選手補強などチーム作りの方法などであったようだ。

 鶴岡監督が後に「内容について言えることは、自分が苦しんだことを蔭山君にさせたくないということだけ」と話しているように、現場の強化策が中心だった。11日、13日と壺田修オーナーを交えて話し合って合意し、13日に監督就任が正式に発表された。

 蔭山監督は、幾多の名選手を輩出した大阪の市岡中から昭和19(1944)年に早大へ進学した。昭和21年に戦後再開された東京六大学リーグ春季リーグ戦から、1番打者、遊撃手として登場した。プロ野球がまだメーンでない時代であり、六大学リーグは隆盛をきわめ華々しい存在であった。そんな中で蔭山選手は終始花形プレーヤーとして活躍した。

 昭和25(1950)年、地元南海に入団。この年は2リーグに分かれ、パシフィックリーグの初年度で、南海としては待望の自前球場・大阪スタジアムを完成させる記念すべきシーズンだった。鶴岡監督は自分のポジションだった三塁を蔭山選手に譲り、自分は二塁へ回るほどの気の遣いようだった。南海としては最大限の条件で迎えたのである。

 蔭山選手は“百万ドル内野陣”の中心として活躍し、現役生活10年間、昭和34(1959)年で引退し、以後はコーチとして鶴岡監督の下で野球修業。昭和37年、鶴岡監督が「指揮官が悪いと部隊は全滅する」の名台詞を残して休養すると、代理監督として29勝17敗1分け、勝率6割3分の成績を挙げて鶴岡監督をシーズン中に復帰させた。この実績は光っており、ここで鶴岡監督の後任に決まっていたのも同然だった。

 17日午前3時頃、高石市羽衣の自宅応接間で倒れている蔭山監督を家族が見つけ、病院で手当てを受けたが、同4時頃「急性副腎皮質機能不全」で死去した。38歳の若さだった。心労が重なり心身ともに極度の疲労が原因といわれるが、それにしても就任わずか5日後の死である。一度もグラウンドに立つこともなく去った悲劇の監督である。

 ■古川 義郎(ふるかわ・よしろう) 1936年、山口県防府市生まれ。防府高−早大と捕手で野球部に在籍。4年生で学生監督として八幡浜高(愛媛)を第40回記念甲子園大会に出場させる。59年に雑誌「野球界」編集部入社。翌60年に共同通信社へ移る。62年までアマ野球担当。63−65年に阪神、66−67年に東映、68−73年に巨人を担当した。

 

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