川上、千葉、藤本、青田…神宮に15万人!? 少年を夢中にさせたスターたち

2011.01.17


昭和24年当時の巨人の中心打者(左から川上哲治、平山菊二、千葉茂、青田昇、山川喜作の各選手)【拡大】

 昔の話をしてもかまわないのかな。私がプロ野球(当時はまだ職業野球だの、日本野球なんて言っていた)を見たのは中学1年生の昭和21年(ちなみに今年は昭和で数えたら86年になる)、戦後1年目だった。父親が後楽園球場の株主だったので、招待パスで入場できた。

 巨人、阪神、中日、阪急、近畿(南海)、大平(大陽)、金星(大映)、セネタースの8球団があった。新聞はセネタース以外の7球団は漢字2文字で表せたが、現在のように活字を自由自在に縮尺することができない時代。そこで出てきたのが『青踏』という名称である。

 確か黒か濃紺に近いユニホームだったと記憶しているが、『青踏』とはどういう意味だろうと思ったものだ。

 当時、タブロイド型の野球新聞、あるいは薄い仙花紙の野球雑誌などが出て、時々アメリカ野球情報を載せていたが、その中に『白踏軍』だの『赤踏軍』などのチーム名があった。なんということはない。ホワイトソックスとレッドソックスのことなのだ。

 一つの球場に4球団が集まって2試合が行われた。もちろんナイター設備などなく、複雑なサインもなし。投げて、打って、守ってでよかった。

 第1試合が終わると、各球団の監督、選手がザルに何個もゴムボールを入れて、スタンドに投げ入れるファンサービスがあった。そのボールにスタンプ印が押されていると、ビールが飲めた。私も金星の坪内監督だったか、清原選手だったかが投げてくれたボールを捕ったことがある。そのときがビールを飲んだ初体験だったが「なんで大人はこんな苦いものを飲むのだろう」という感想を持ったのを今でも覚えている。

 セネタースの白木儀一郎投手が投げていて、相手打者がピッチャーゴロ。打者走者があきらめて走るのをやめると、白木投手は熊耳武彦捕手に送球して熊耳から飯島滋弥一塁手に送球が渡りアウトに。ファンは喜んだものだ。これも伝説的になってしまったが、私自身も数度見ている。

 また当時の名物は試合前に行うトスバッティングで、阪神のは特に有名で藤村富美男、土井垣武、金田正泰さんらが見せてくれたアクロバチックなプレーは大変な人気だった。

 昭和23年、私は青山学院高等部1年生。この年の11月4日、神宮球場で巨人軍創立15周年記念行事が行われ、巨人−阪急、金星、急映の選抜チームの試合があった。無料入場というので午後の授業をさぼって、大勢の友だちと観戦しに行った。

 川上哲治、千葉茂、藤本英雄、青田昇さんら大スターがいた巨人はもちろんプロ野球の一番人気。超々満員。入り口で観衆が折り重なって倒れ、子供の死傷者も出たという。当時、一部の報道で15万人を集めたなどというものもあったが、なんで狭い神宮で15万人もいたのかといったら、皆2つの目で見ていたから15万人(実際は半分の7万人)という笑い話まであった。

 ところで翌日、教師から「きのう授業さぼって神宮球場に行った者は廊下に立て」と指令が出た。なんと半数以上が起立して、座っていたのは十人足らず。これには教師も驚いて不問に付した。当時の野球少年はそんなものだったのである。六十数年前を思い出して駄文を書いたが、勘弁してちょうだい。

 ■庵原 英夫(いはら・ひでお) 昭和7年東京生まれ。青山学院中、高等部を経て明大進学。応援団生活で野球、駅伝、ボクシングなどと関わりを持つ。昭和31年、デイリースポーツ入社。38年サンケイスポーツに転社。大洋担当、デスク、記録記者などを歴任した。

 

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