緻密野球の三原監督を喜ばせた大洋・クレス

2011.03.01


筆者自宅を訪れたクレス。双子のわが子と記念撮影=1965年頃【拡大】

 後楽園球場(現東京ドーム)は三塁側が選手、関係者の入場口で、入った正面に喫茶室があった。そこにGIカット、スポーツシャツから丸太ん棒のような太い腕をのぞかせた青年が英字新聞を読んでいた。

 もう48年も前の話。1963年、オールスター戦前の巨人−大洋戦でのことだった。

 大洋の牛込通訳によると、米大リーグ・ブレーブス傘下3Aの選手で「テストをしてほしい」と言っているとのことだった。

 川崎・等々力にある大洋漁業の総合グラウンドで、その日のうちにテスト。結果は、左翼フェンスの後方にある体育館の屋根に達する大飛球を連発したという。翌日、三原監督の目前でも一発長打の底力を見せつけたため、入団は即決した。

 マイケル・クレスニック(登録名・クレス)。1931年9月24日生まれ。184センチ、70キロ、右投げ右打ち。ポーランド生まれ。小学6年生のころ、米国ジョージア州に移住。ウエストアレス高から兄のいたブレーブスに入団。主に3Aに所属していたが、好調時にはメジャーの試合に出場した経験も持つ。

 巨人ではなく大洋を選んだ理由は、Bクラスにいる球団の方が採用率が高いだろう、という思惑からだったという。

 当時の大洋の野手には左のマック(一塁手)、右のアグウィリー(外野手)がいた。クレスはビザの取得を完了した7月17日、川崎球場での広島11回戦に遊撃手でデビューした。

 右足を極端に後方に引くクローズド・スタンス。相手バッテリーは当然のようにベースの外角を攻めてくる。クレスは待っていましたとばかり、左足を大きく踏み込んで鋭い打球を弾き返した。

 私がクレスと親しくなったのは、「東京に帰るなら私の車に乗らないか」と声をかけたのがきっかけ。車中では相手投手の特徴を中心にした話題に終始した。

 1カ月ほどたったころ、試合後、三原監督から「クレスと一緒に食事をしよう」と誘われた。その日の試合で、クレスが満塁のチャンスに「監督、犠飛を狙うか、普通に打っていいのか」と指示を仰ぎ、緻密な野球を身上とする三原監督は「これまで、うちにはこんな選手はいなかった」と喜んだという。この試合に快勝して監督は上機嫌だった。

 途中出場のこの年は74試合、13本塁打、47打点だったが、2年目は130試合、36本塁打、89打点と活躍。オールスター戦にも選ばれた。

 4年目を迎えたオープン戦の最中、クレスから「どうもトレードらしい。同席して話を聞いてほしい」。当日、球団はびっくりして「同席だけは勘弁してください」と頼まれた。ここでクレスの近鉄移籍が決定した。

 夏の甲子園大会を前に私は「高校野球50年史」の編集のため、大阪本社に転勤。ここでまたクレスと再会することになる。

 クレスの宿舎はグランドホテル。朝日新聞大阪本社の目の前だった。敬虔なクリスチャンのクリスは、教会の知人から譲られた胸に茶の十字架模様の浮き出た黒の柴犬を連れてきた。名前はブラッキー。外出中はどうするのか、心配していたが、2週間ほど後に中之島公園を散歩中、行方不明になってしまった。

 それからのクレスは、どことなく精彩を欠いたように思える。67年に阪神に移ったが、わずか43試合、5本塁打、17打点と振るわず、日本から去った。 

 ■増田 稔(ますだ・みのる) 1933年、東京生まれ。新宿高、早稲田大学政治経済学部卒。59年に共同通信社から朝日新聞社へ移籍。整理、社会部を経て63年に東京五輪要員として運動部に復帰。高校、大学時代に野球部に在籍していたことから、野球をベースにバスケットボール、スケート、ゴルフを担当。91年に定年退職。2007年まで30年近く「神宮球場ガイドブック」を執筆した。

 

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