復興期す姿と重なる…30勝投手・皆川睦雄さんの一言

2011.04.12


最後の30勝投手・皆川睦雄。東北人らしい粘り強い投球が身上だった【拡大】

 物静かでやさしく、常に柔和な顔、めったにほめない故・鶴岡一人監督が「俳優でも銭が稼げる」といったほどの優男。元南海の故・皆川睦雄さんが、2011年度の「野球殿堂入り」に決まり、中日・落合監督とともに7月のオールスター戦で表彰される。19勝が最高だった皆川さんがプロ15年目、33歳となった68年に31勝を挙げ、それ以来プロ野球に30勝投手は誕生していない。

 担当記者だった当時、あれよ、あれよと勝ち進む皆川さんに驚きと、不思議さで、ビックリの毎日だった。勝つたびに「ノムのおかげ」と言って女房役の野村克也捕手を持ち上げた。またその通りノムさんが良く打った。その年、38ホーマーのうち10本以上は投手・皆川がマウンドにいるときに打っている。「リードに気を使わないから打てる」。ノムさんも高卒の同期生で互いに苦労した間柄だけに、気楽に打てたようだ。

 入団した頃は直球とシュート、カーブだけだったが制球の良さで3年目から8年間2ケタ勝利を重ねた。しかし、10年もすると通じなくなる。

 56年のオープン戦でミスター・タイガースの藤村(富美男)さんに落ちるボールを投げ、物干し竿といわれた長いバットに空を切らせた。それから磨きをかけ武器としていたが、スライダー、チェンジアップを加えたのは巨人・王貞治とのオープン戦対決。「どうしても左打者に打たれる。去年、王にスライダーを投げたらバットを折ってフライになった。そして、チェンジアップは今年、王のタイミングが合わなかった。それから幅が広がった。だから、藤村さんと王がオレの恩人だ」

 68年、ドンドン勝ち進む皆川さんはその秘密を記者に漏らしてくれた。なんとシーズン31勝10敗、防御率1・61の成績、周囲だけでなく本人もびっくりだった。そして71年、6勝5敗に終わるとさっさと引退した。179センチ、74キロの細身で通算221勝139敗を刻み、立派な現役生活を終えている。

 阪神、巨人、近鉄で投手コーチを務め、05年2月、敗血症のため69歳で死去したが、東北人らしさを存分に生かした選手生活だった。山形県米沢市に馨さん、みやのさんの7人目の子供として生まれたが、2つの時、馨さんが死去。女手一つで育てるみやのさんのしつけが厳しかった。

 夜、お墓のある道を使いに出し、嫌がると「お前にできるから頼むんだ」と容赦なし。「おかげで自分のことは自分でする習慣がついた」そうだ。それが、「自己中心主義とある人に言われたが、田舎出身は、マイペースを守らんとやっていけない」のセリフに、説得力があった。

 東日本大震災に襲われ、黙々と復興を目指す東北各県被災地の人々がテレビに映し出されると、皆川さんの「黙って勝負」を思い出す。登板日にはモチを食べ、真智子夫人特製のパジャマを夏も離さず、冷房もかけない。ビール1本、たばこ20本を続け、マージャンも夜12時には切り上げた。

 「摂生がいかに大事かを実証していた」。ノムさんも舌を巻いていた。研究熱心さと、絶え間ない努力で、巨人・王監督の87年の優勝にコーチとして大きく貢献した。「僕が入団した翌年、打たれても、皆川さんの大丈夫、大丈夫、に随分励まされた」。桑田真澄元投手が新聞で述懐していたが、現役時代のやさしさはコーチとしても同じだった。

 ■大場 宇平(おおば・うへい) 1941年、宮城県生まれ。63年、報知新聞社入社。プロ野球の記録担当から66年に大阪転勤。阪急、南海、阪神、近鉄担当。72年東京転勤。大洋、ヤクルト、日本ハム担当。巨人現場デスク。コミッショナー、セ・パ連盟担当。一般スポーツを経て、最後は販売局で定年を迎えたが、27年間、現場でプロ野球を担当した。

 

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