手放しでは喜べないスクープ…黒い霧事件

2011.07.12


1969年の開幕直前、永易選手(手前から2人目)が記者会見で八百長を暴露した【拡大】

 プロ野球界を震撼させた黒い霧、いわゆる八百長事件。それは当時西鉄ライオンズ(現西武)のある外国人選手が報知の担当記者に耳打ちした一言から発覚した。このチームにブラックソックス事件と同じことをやっている選手がいる。

 ブラックソックス事件とは1919年のワールドシリーズでシカゴ・ホワイトソックスの選手8人が賭け屋に買収され球界から永久追放された事件。

 八百長とは由々しき問題。福岡からの一報でさっそく東京本社で特別取材チームを編成することになり、ベテラン記者を球団担当からはずし「遊軍」と称して特別取材チームに組み込み、まず西鉄を徹底マークすることからスタートした。

 しかし問題が問題だけに取材は難航した。八百長の事実を耳打ちしてくれた選手も疑惑の選手の名前まではどうしても教えてくれない。ただ取材を続けていくうちに西鉄のフロントが中心人物を特定していることがわかった。

 球団は福岡の繁華街で身分不相応の遊びをしている永易投手をマーク。年俸180万の選手が一晩で数十万円もする一流のバーで飲んでいれば誰だっておかしいと思う。球団はこの事実を突き付けて永易投手を追及。我々も永易投手が中心人物であることをつかんだ。しかし事がことだけに永易本人、あるいは西鉄にストレートにぶつけてもスンナリ認めるはずもなく、さらに証拠集めに動く日々が続いた。

 一方でこの種の事件は必ず暴力団が絡むはず。そこで親会社の読売新聞と共同戦線を張り、警察関係は読売の社会部にお願いした。

 選手との仲介役を務めていた藤縄某なる人物をあぶり出したのは警察関係の取材をしていた読売の社会部だった。藤縄の存在をつかんで西鉄球団に真正面からアタック。国広球団社長の重い口を開かせることに成功した。

 永易、藤縄の存在をつかんでから一気に取材の道は開けたが、取材を進めていくにつれ、八百長の疑惑は西鉄では永易だけではない。また疑惑は西鉄以外のチームにも広がっていることが分かった。疑惑の選手はほとんどが投手。

 そこでウワサの投手の投球状況を過去にさかのぼって徹底的に調べ上げた。ある投手は連勝が続く中でぽつんと1試合だけ、それもゲーム前半で打たれる。またある投手は好投を続けながら、ある時、急に打たれる。後に疑惑の投手を抱えていた監督が、球が真ん中に集まり集中打を浴びる、実績からとても信じられなかった、としみじみと話していた。

 永易はともかく、疑惑をもたれた投手はみんなエース級だったから球団ではまさかと思い、逆に野球賭博の胴元としては大きなメリットがあったわけだ。

 昭和44年(1969年)10月8日、この日の報知新聞、読売新聞に八百長問題が大きく報じられた。すでに国広球団社長からひそかにパ・リーグに不祥事の報告が挙げられていたので、パ・リーグは13日に緊急理事会を開き、永易投手を球界から永久追放することを内々に決めていた。しかし永易投手一人の処分で収まるはずはない。

 その後、他球団にも波及する。さらには警視庁の捜査からボートレースの八百長事件に一部プロ野球選手が絡む事件にまで発展。国会も参考人聴取に乗り出す、プロ野球界を揺るがす大事件になっていった。

 事件は翌45年まで続き、当時運動部長をしていた私は本来のプロ野球から外れた事件ものの取材に追われ、時には関西の組関係の報道にミスがあって、神戸まで組関係者に謝罪に行く一幕も。事件終結後、野球部として「特別賞」をいただいた。

 長い記者生活で幾度かスクープをして賞をもらったが、この時のスクープだけは手放しで喜べなかった。今思えば記者生活で最大のスクープなのだが。 

 ■田中 清貴(たなか・きよたか) 昭和25年、プロ野球が2リーグに別れた時からの野球記者。初仕事は24年12月の日本野球連盟の分裂。報知新聞の初代アマ野球と国鉄担当記者。夏の予選に負けた直後に上京した金田正一投手を当時の中大球場で取材、その快速に驚く。運動部長ではプロ野球の黒い霧、大阪の編集局次長時代には江川、小林のトレード。数々の事件に出合えたことが財産に。

 

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