蔦文也も恐れをなした徳島商の猛練習

2011.08.08


蔦文也監督【拡大】

 蔦文也が亡くなってから、もう10年になる。平成13年4月28日、「攻めダルマ」は肺がんで人生の幕を閉じた。四国山脈に抱かれた生まれ故郷の県立高・池田を率いて高校野球に革命を起こした「やまびこ打線」への道程は、蔦が徳島商に入学した昭和11年から始まる。

 蔦はもちろん野球部に入るつもりだった。だが、練習見学で見た先輩部員は猛者ばかり。当時の野球部は、のちに「徳島県高校野球育ての親」と言われる稲原幸雄(元日本高野連副会長)が率い、林義一(のち国鉄監督、阪神、西武などのコーチを歴任)らが主力選手の時代。猛練習で有名だった。これに恐れをなした蔦はテニス部に入る。

 「野球部はおっさんばかり。過保護に育ったワシは気が小さかったから怖かった。テニス部は大事にしてくれたよ」

 1年後、怖い先輩が卒業すると野球部に入ったが、“弱気”は治らない。エース・4番で3回も甲子園に出ながら1本もヒットが打てなかった。同志社大からプロの東急入りしても、5試合に登板して10回を投げて自責点13…。1年でクビになった。

 「負け犬じゃった。ここ一番で必ず弱気になる。攻めが消極的やった」

 教員免許を取って池田の監督になり、20年目で母校を倒してやっと甲子園出場。そして夏春連覇を含む3回の全国制覇は、当時の反省が生きた結果。強気に攻めまくって池田時代を築いた。

 蔦の同期に平井三郎がいる。明大からプロ入りし、巨人では昭和30年代の不動の遊撃手だった。近鉄と阪神のコーチも務めた。

 蔦少年が恐れた徳島商の猛練習は、板東英二も苦汁をなめた。「年中無休で夜の11時まで。練習が厳しすぎてみんな辞めたから、あの年は部員が足りなくなった。サードのレギュラーも辞めたんです」。剛腕投手・板東が甲子園を席巻した昭和33年。正三塁手が去り、監督の須本憲一(元東急)は仕方なく、マネジャーを三塁手に起用。「板東の球なら引っ張れないからサードには飛ばない」という理由だった。

 その年、板東は高校野球の制度を変えさせる。春の四国大会の高知商戦で16回、高松商戦で25回を投げ抜いたことで、高野連は延長18回引き分け再試合制を導入。その制度適用の第1号も板東だった。

 夏の甲子園準々決勝、魚津(富山)の村椿輝雄との投げ合いは0−0で延長18回引き分け再試合に。試合後のお立ち台で板東は「みなさん、お疲れさんでした」と報道陣をねぎらった。今の時代、こんな球児はいない。この頃から芸能人になる素養があったのか…。

 再試合に勝ち、作新学院(栃木)も破ったが、決勝の柳井(山口)戦で力尽きる。さすがに決勝戦は三塁方向に打球が飛んで安打を許した。だが、1大会83奪三振、1試合25奪三振(魚津戦)は不滅の大記録だ。

 板東と一緒に甲子園に出た広野翼(阪急)の弟、広野功は慶大を経てプロ入り。中日と巨人で史上初のサヨナラ満塁本塁打を2本を放った打者として名前を残す。中日や西武で2軍監督、ロッテ、楽天では編成部長も務めた。

 劇的本塁打といえば、広永益隆もそう。甲子園に4回出場してプロ入り。通算34本塁打ながら、プロ野球通算6万号、パ・リーグ通算3万号、平和台球場プロ野球公式戦最後の本塁打(野茂から)、両リーグでの代打サヨナラ弾(史上2人目)…と「メモリアル男」の冠がついた。現在は少年野球を指導する。

 高校時代の投げ過ぎがたたり、板東は中日で77勝に終わったが、明大から中日に入った川上憲伸は112勝。МVP、沢村賞、最多勝(2回)と輝かしい実績を残して大リーグ入りした。

 川上の控えだった加藤竜人は流通経済大−NKKを経て日本ハム入りして現在はスカウト。平成11年夏の甲子園に出た牛田成樹は明大から横浜に入り、昨年は中継ぎで23ホールドを記録した。

 牛田と同じ11年夏のメンバーでは、阿竹智史と西山圭二の2人が競輪選手として活躍している。

 全国制覇1回(昭和22年春)、甲子園春夏40勝の徳島商はことし、6年ぶり23回目の夏の甲子園出場を決めた。エース・龍田祐貴は決勝の生光学園戦で延長13回、183球を投げ抜いた。板東の魂は受け継がれている。=敬称略

 

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