G笑撃!“脱ぎ芸”披露…オヤジの言葉に全員が泣いた

2011.08.25


ボクにとって球界の「オヤジ」といえる存在だった巨人・藤田監督【拡大】

 1992年に西武から巨人へ移籍し、すぐに1軍の熊本遠征に合流。西武では首脳陣からの冷たい扱いに人間不信にさえ陥っていたボクは、合流初日から温かく接してくれた藤田元司監督の言葉に涙があふれ、「この人のために死のう」と誓いました。3歳で父親を亡くしているボクにとっては、以来、藤田監督は球界の「オヤジ」と呼べる存在でした。

 その翌日、熊本・藤崎台球場で行われたヤクルト戦。さっそく、藤田監督から「デーブ、行くぞ」の声。代打での出場です。しかし、意気込んで臨んだものの、結果は甘い球を打ち損なってのショートフライ。西武では1打席で結果を出せなければ、即2軍落ちです。巨人でもダメか…。ベンチに戻ってきて落ち込んでいるとき、藤田監督から「デーブ、ミット持ってきてるか?」と守備に就けとの指令です。

 巨人では一塁手で起用されると思っていただけに、急いでロッカールームへキャッチャーミットを取りに走り、レガースは藤田浩雅捕手(現巨人軍寮長)からの借り物。藤田監督の「好きなようにやってこい。オマエの思うようにやればいいんだ」の声に押されるようにベンチを飛び出し、巨人で初めてマスクをかぶったのです。

 マウンド上にはエースの斎藤雅樹投手。おぜん立てをしてくれた藤田監督のために、そして自分が生き残るためにも必死のリードです。ところが、サインを交換していると、どうも様子がおかしい。右打者の内角に斎藤投手得意のシンカーを要求すると、ことごとく斎藤投手は首を振るのです。たまらずボクはマウンドへ駆け寄って、こう言いました。

 「斎藤さんにとっては何百試合のうちの1試合かもしれないけど、ボクにとっては人生最後の試合かもしれないんです。ボクのサイン通り投げてもらっていいですか!」

 あとで聞いたら、斎藤投手は、それまで右打者にはシンカーを投げない組み立てをしていたとのこと。でも、かえってヤクルトの打者は、データにないボールを投げてくるものだから面食らい、凡打の連続。ボクは2打席目でセンター前ヒットを放ち、試合も勝利。最高のデビュー戦でした。

 試合後、福岡に移動すると、前日は警戒感から食事の誘いを断った吉村禎章外野手(現巨人野手総合コーチ)が、また声をかけてくれました。2日連続で断るわけにはいかないと思い、「ハイ、お願いします」とお供したのです。数人の選手と居酒屋に入り、カラオケをすることになりました。そこで、ボクは西武時代に仲間の選手とやっていたレパートリーを披露しました。

 桑名正博さんのヒット曲「セクシャルバイオレットNo1」を服を脱ぎながら踊って歌うと、それがバカ受け。西武では当たり前の芸だったのに、「球界の紳士たれ」のモットーの下、おとなしい? 巨人の選手の目には新鮮に映ったのでしょう。次の日、さっそく前夜の情報を耳にした藤田監督は「デーブ、いろんな芸を持っているらしいな。今度見せてくれ」とニヤリ。そこで、ボクはようやく巨人に溶け込めたという気がしました。

 そんな家族的なムードの中、捕手としてレギュラーの座を固めつつあったある試合で一転、ボクは藤田監督の怒声に凍り付いたのです。

 試合でバッテリーを組んだのは、2軍から昇格してきたばかりの荻原満投手。緊張したのか、荻原投手は決め球のスクリューボールのコントロールがつきません。そこでリードするボクは、スクリューボールを捨て、他のボールで勝負したところ連打を浴び、荻原投手はKO。ベンチへ戻ってきたボクは、藤田監督にいきなり怒鳴りつけられました。

 「大久保、荻原の持ち球は何だ。スクリューだろ! オマエは、なぜそのボールを使ってやらない。荻原にとっては一生、悔いが残るピッチングとなったんだ。オマエは交代だ。まばたきしないで見ておけ!!」

 それまでの温和な顔は鬼のよう。ボクは試合終了まで、ベンチで固まったように動けず、トイレにも行けなかったことを覚えています。

 でも次の日、藤田監督と顔を合わせると、笑顔で「おおデーブ、おはよう」。まるで、何もなかったように。そんなところが、藤田監督の魅力でもありました。

 92年のペナントレースは、ヤクルトが先行し、巨人と阪神が追い上げるという展開でした。シーズン終盤、ヤクルトとの最後の天王山。試合前のミーティングは忘れられません。

 「きょうだけは自分のためでなく、人のために働いてくれ。彼女でも、奥さんでも、子供のためでもいい。自分が打ちたい、抑えたいじゃない。みんなが、人のためにプレーをしてくれれば、オレは何の悔いもない」

 私欲を捨てて懸命にプレーしてくれ−。藤田監督の決意の言葉に、選手は全員泣きました。隣にいた原さんの目もまっ赤です。ボクもジーン…。試合は負けて、V逸。それでもスッキリ終われたシーズンでした。すでに覚悟を決めていたのか、その年限りで、藤田監督は巨人のユニホームを脱ぎ、長嶋茂雄監督にバトンを渡しました。

 2006年2月9日、藤田さんが心不全のため74歳で他界。世田谷区の自宅に駆けつけたボクは、恩人の亡骸を前に泣きに泣きました。これでもう、ボクには「オヤジ」と呼べる人はいなくなった…。そう実感したのです。

 ■大久保 博元(おおくぼ・ひろもと) 1967年2月1日、茨城県大洗町生まれ。水戸商高から豪打の捕手として84年にドラフト1位で西武入り。92年にトレードで巨人へ。「デーブ」の愛称で親しまれ、95年に引退するまで、通算303試合出場、41本塁打。2008年に打撃コーチとして西武に復帰。現在は東京・新宿区の自宅で野球塾「デーブ・ベースボールアカデミー(DBA)」を開校。DBAは生徒募集中、問い合わせは(電)03・5982・7322まで。

 

注目情報(PR)