松山商、記憶に残る“奇跡のバックホーム”

2011.09.05


夏の優勝投手 井上明【拡大】

 「奇跡のバックホーム」の記憶は16年が経過しても薄れない。平成8年夏の甲子園決勝。松山商は熊本工と古豪対決。9回裏に追いつかれ、延長に入った10回裏の守りだった。

 1死満塁というサヨナラのピンチで、ベンチから矢野勝嗣が右翼へ。矢野の背番号は9だが、継投策の関係でベンチに控えることが多かった。やっと巡ってきた出番で、矢野はスーパープレーをやってのける。

 熊本工・本多大介の打球が矢野の頭上に向かって飛んできた。NHKの実況アナでさえ「行った!文句なし!」と叫んだほどの大飛球。打球は風に戻され、背走していた矢野は前進。それでも捕球した位置はサヨナラ犠飛には十分な距離があった。

 誰もが熊本工の優勝と思ったとき、矢野の約80メートルの返球はダイレクトで捕手・石丸裕次郎(駒大−東芝)のミットに届いた。間一髪のアウト…。スタンドの拍手はしばらく鳴りやまなかった。矢野は11回表の先頭で二塁打して勝ち越しのホームへ。この回3点を奪い、松山商は頂点に立った。

 矢野は、それまでの返球練習で何度も“大暴投”してノーバウンド返球は禁止されていた。だが、そのときはワンバウンドでは間に合わない、と判断。練習が土壇場で生きた。

 「最後に出てきて、いいところだけ持っていった」。いまだに当時のメンバーから冷やかされる矢野は松山大でプレーした後、地元の愛媛朝日テレビに入社した。

 「奇跡のバックホーム」を、ネット裏の記者席で見た井上明は「体が震えた」という。矢野たちの優勝より28年前の昭和44年。同じ夏の甲子園決勝で、同じ1死満塁のサヨナラのピンチを2度もしのいで優勝投手となった先輩は、明大から朝日新聞に入社。運動部記者となり、後輩球児の戦いを見守っていた。

 昭和44年夏の決勝は、太田幸司(近鉄、巨人、阪神)を擁する三沢(青森)との4時間16分の激闘。0−0で延長18回引き分けとなり、史上最高の名勝負といわれる。

 松山商の1死満塁の大ピンチは15回と16回に訪れる。15回は井上のグラブを弾かれたゴロを前進守備の遊撃・樋野和寿(明大−日本鋼管)がとっさの動きで拾って本封。16回は井上−大森光生(三菱重工広島)のバッテリーがスクイズを外して併殺に取った。再試合は4−2の勝利…。

 「全国優勝できないなら、準優勝も県大会の1回戦負けも同じだ」。これが当時の監督、一色俊作の口グセだった。

 「守りこそ最大の攻撃」が伝統の松山商の練習は、午前零時を回ることが度々あった。井上は、大森がストライクゾーンいっぱい構えたミットなら連続10球、やや広いゾーンなら連続30球を通さないと解放してもらえなかった。大森はのちに「野球は楽しいものではなかった。学問でした」と振り返っている。

 厳しい守備練習が土壇場の好プレーを生み、春・夏通算7回の全国優勝に繋がる。特に、夏にはめっぽう強く優勝は5回、通算80勝のうち60勝を積み重ねたことで「夏将軍」とたたえられる。

 伝統の基礎を作った男たちの中からは、5人もの野球殿堂入りを出している。巨人、阪神などの監督で1657勝を数えた藤本定義。早大監督として最多優勝を誇り、阪神初代監督でもある森茂雄。阪神で「闘将」と言われ、巨人・沢村栄治と名勝負を展開した景浦将。プロ野球初の1000安打達成者で元中日監督の坪内道典。そして、巨人の名二塁手で「猛牛」と呼ばれた千葉茂だ。

 戦後の名選手も多士済々。昭和28年夏の優勝投手・空谷康は10球団の争奪戦となり、初の入札制で中日入り。これが報告されなかったことで高野連が激怒し、松山商は1年間の公式戦禁止処分を受けた。俗に「空谷事件」という。

 下手投げの山下律夫は近畿大から大洋などで103勝。藤原満は南海で闘志あふれる1番打者として活躍した。西本明和は41年夏の準優勝投手で広島入り。弟の聖は巨人のエースとなり、ドラフト外入団では最多の165勝。現在はロッテのコーチを務める。

 61年夏準優勝チームの主将・水口栄二は大会安打記録(19本)を樹立。早大でも主将を務めて近鉄入り。現在オリックスの打撃コーチ。同期の佐野重樹は近大工学部から近鉄入りして中継ぎ投手として活躍。米国マイナー球団でもプレーした。現在は大阪サンケイスポーツ評論家、NHKの大リーグ解説なども務める。

 松山商は大正、昭和、平成で優勝を飾った唯一のチーム。時代が変わっても存在感を見せつける。 =敬称略

 

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