西武・菊池雄星を生んだ岩手は屈指の“古豪県”

2011.10.11


盛岡中 「久慈賞」久慈次郎【拡大】

 東北6県の中で一番の古豪県と言っていい。岩手県勢が全国屈指の強豪といわれた時代があった。全国大会で大正5年の第2回大会から7回大会までは、一関中(現一関一高)と盛岡中(現盛岡一高)の岩手県勢が交互に東北代表として出場し、上位に進出した。

 秋田中が代表となって準優勝した第1回大会の東北予選は、開催の連絡がなかったため参加できなかった。

 一関中は第2回全国大会で8強。京都二中戦は、全国大会で初めてスクイズを成功させたチームとしても知られる。

 一関中より3年早く、県内で一番早く野球部を作った盛岡中は6年と8年に4強入り。10年も8強に名を連ねた。

 この時代の指導者が獅子内謹一郎。盛岡中の同級生には詩人の石川啄木(中退)がいて親友だった。早大では第1回の早慶戦に5番・中堅で出場。2安打した記録が残る。故郷に戻り、母校だけではなく岩手県の野球発展に尽力。「岩手野球の父」と呼ばれる。都市対抗の岩手県予選では「獅子内賞」が創設され、最優秀選手に贈られている。

 都市対抗の賞といえば、全国大会の「久慈賞」に名前が残る久慈次郎も盛岡中の出身だ。強肩捕手として早大でもリーダーシップを発揮。当時の監督・飛田穂洲に心酔し「一球入魂」を座右の銘とした。北海道に渡り、日本初のクラブチーム「函館オーシャン倶楽部」でプレー。昭和9年、米国選抜チームと対戦した全日本チームでは沢村栄治らとバッテリーを組んだ。

 日本初のプロ球団となる大日本東京野球倶楽部(のちの巨人)には主将として入団を誘われたが、先輩の獅子内を習い、アマ野球発展に貢献する道を選ぶ。函館オーシャンの兼任監督だった14年8月、札幌倶楽部との試合で捕手のけん制球を頭部に受け、頭蓋骨骨折で悲劇の最期を遂げた。40歳だった。都市対抗では22年から「久慈賞」を創設。敢闘精神あふれる選手を表彰している。久慈は正力松太郎や沢村栄治とともに、野球殿堂の第1回受賞者に。函館オーシャンスタジアムに建つ銅像は、全日本でバッテリーを組み、巨人入りを推薦したスタルヒンの銅像がある旭川スタルヒン球場の方向を向いている。

 県内で3番目、明治38年創部の福岡高(旧福岡中、二戸市)が甲子園を沸かせたのは昭和に入ってから。2年夏と36年夏に8強入りするなど、10回出場は県内最多。全国の2ケタ出場校の中で、春の出場がない唯一のチームでもある。出場が決まりながら、予算不足で辞退したことがあった。

 プロ選手も多く輩出。明大から広島入りした鈴木銀之助は指導者として3回、母校を甲子園に導いた。阪神で吉田義男と二遊間を組んだ白坂長栄、ヤクルトの名物寮長になった岩崎哲郎もいる。55年夏、19年ぶりの甲子園をつかんだエースが欠端光則だ。大洋・横浜では先発・中継ぎでフル回転したタフネス右腕は通算57勝。スカウトや広報担当も務めた。

 三陸の港町にある県立校・大船渡が甲子園で旋風を巻き起こしたのは、昭和59年の春だった。左腕・金野正志を中心に4強入り。優勝した岩倉(東京)との準決勝、0−0の9回裏に金野はサヨナラ弾を浴びてひざから崩れ落ちた。金野をはじめ、捕手の吉田亨(筑波大、現大船渡監督)、4番・鈴木嘉正(法大)、5番・今野一夫(早大)らは、大船渡中時代に東北大会優勝。関東の強豪校から勧誘されたが、金野の「残る」のひと事で全員が地元の高校に進んだことが、甲子園につながった。現在のチームは部員約50人。東日本大震災では10人以上が家族を失ったり、自宅を流された。

 「大船渡旋風」以降は私学勢が台頭する。47年に県勢センバツ初勝利を飾った専大北上のエースは畠山司だが、2人の息子も甲子園へ。平成9、10年夏のエースが畠山雅徳で、10年の1年生三塁手が畠山和洋。12年夏も出場した和洋は、ヤクルトの4番に成長した。12年夏は、2年生エースの梶本勇介(オリックス内野手、大阪府出身)もいた。

 そして平成21年。岩手県は花巻東(私立、旧花巻商)の活躍に沸いた。春は県勢初の準優勝、夏は30年ぶりの4強。史上に残る左腕となった菊池雄星は西武2年目の今季、プロ初勝利を挙げた。

 花巻東の活躍より前、古豪・一関一高は平成16年春、49年ぶりに甲子園に姿を見せた。エースの木村正太は巨人入りして中継ぎで活躍(現在は育成選手)。このときは「21世紀枠」での出場だった。好投手・木村の存在はあったが、甲子園が岩手県の伝統校を忘れていない−という証明でもあった。=敬称略

 

注目情報(PR)