山形“弱小県”返上へ!皆川睦雄、広島・栗原ら輩出

2011.10.31


広島の主砲 栗原健太【拡大】

 『なせば為る 成さねば為らぬ何事も 成らぬは人の なさぬなりけり』

 皆川睦雄は生前、高校野球の思い出を聞かれるとこの格言を口にした。

 「大会前など、校長先生や監督から激励される度に、この言葉を聞かされた。高校時代といえば、それしか思い出さないくらい、何度も…」

 江戸時代、米沢藩(山形県米沢市)の藩主だった上杉鷹山の格言だ。皆川は、現在の県立米沢興譲館高の出身。戦国武将・上杉景勝の名家老、直江兼続が開いた学問所を鷹山が再興し、藩校「興譲館」としたのがルーツだ。ケネディやクリントンら米大統領が「最も尊敬する日本の政治家」と称した鷹山は、米沢市民の心に深く息づいている。校名は米沢中−米沢興譲館中−米沢西高−米沢興譲館高と変遷。皆川は米沢西時代に在籍した。

 県内屈指の名門で、野球部の歴史も長いが、全国大会には出場できていない。夏の大会であと1勝と迫ったことが3度ある。3度目は昭和28年夏、エース・皆川のときだった。県大会を勝ち抜き、東北大会も決勝まで進んだが、白石(宮城)に敗れた。

 皆川は当時、立教大進学を志望していた。入っていれば、長嶋茂雄(元巨人監督)、杉浦忠(元南海・ダイエー監督)らと同期になっていた。だが、その東北大会で審判を務めていた元南海の岩本信一が皆川の素質を見抜き、当時の南海監督・鶴岡一人に進言。皆川は鶴岡に口説かれ、即プロ入りを決めた。

 4年後にチームメートとなった杉浦とともに、南海の黄金時代に貢献。3年目から杉浦と同じアンダースローに転向し、南海一筋18年でマークした通算221勝(杉浦は187勝)は、南海−ダイエー−ソフトバンクを通じた球団記録でもある。昭和43年には31勝。以後、シーズン30勝投手は出ていない。

 引退後は阪神、巨人、近鉄のコーチに。サンケイスポーツの評論家も務めた。平成17年、69歳で亡くなったが、米沢市内の球場には皆川の功績をたたえたレリーフが飾られている。

 皆川の大先輩に、富樫興一がいる。米沢興譲館中時代の選手で、慶大の名外野手として活躍。阪神電鉄に入社し、阪神の初代球団代表となった。

 プロ野球の2リーグ分立の際、人気の阪神−巨人戦を存続させるためにセ・リーグ所属を決断した富樫は、現在のプロ野球隆盛の立役者のひとりともいえる。

 米沢興譲館に劣らない名門校が、山形東(旧山形中)と山形南だ。両校は毎年、定期戦を行うライバル。山形東は昭和11年夏、県勢初の全国大会出場を果たした。ともに甲子園出場は仲良く5回。山形南はプロ選手も輩出した。日大から中日入りした会田豊彦は東京新聞記者に転身。広島と日本ハムに所属した滝口光則は、地元で少年野球を指導。高校野球の解説者も務める。現役には日本ハム(19日付で戦力外通告)の加藤武治。国立の東京学芸大から横浜入りし、平成18年には最優秀中継ぎ投手にもなった。

 明治33年創部の古豪・新庄北(旧新庄中)は昭和30年代に2度夏の大会に出場。新庄市長を5期18年にわたって務めた高橋栄一郎は、慶大からノンプロを経て巨人入り。南海では皆川と5年間一緒で、オールスターにも出場した投手だった。市長時代、阪神の人気選手・新庄剛志を市を挙げて応援して話題になった。

 東海大山形や酒田南、羽黒…。山形県は、私学勢が野球留学生を主力に甲子園の常連となって久しい。そんな中、日大山形は地元選手を中心に県内最多の甲子園出場(春夏18回)と勝利数(12勝)を誇る。昭和43年夏、4番・捕手で出場の小山田健一は東映とヤクルトでプレー。ブルペン捕手など裏方にまわり、平成13年に50歳で亡くなった。

 その年に日本一となったヤクルトは、池山隆寛(現コーチ)が小山田の遺影を手に優勝セレモニーに臨んだ。息子の貴雄(神奈川・川崎工−青森大)も捕手でヤクルト入り。現在は父と同じブルペン捕手を務めている。

 日大山形の現役プロといえば、栗原健太だ。平成10年夏に2年生4番で出場。広島の4番に成長したが、前出の加藤武治と、新庄東出身の高橋敏郎(元ヤクルト)が入団するまでの3年間、山形県出身の現役プロは栗原ひとりだけ、という時期があった。

 東海大山形が昭和60年夏、PL学園に歴史的大敗(7−29)を喫した。これがきっかとなり、県議会で「どうすれば強くなるか」が議題に2度もあがるほど、山形県は長く弱小県といわれてきた。実際、夏の甲子園勝利はいまだ全国最下位の17勝。だが、羽黒がブラジル人留学生を主力に平成17年春に4強入りするなど“汚名”は返上しつつある。=敬称略

 

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