“名門”松商学園はプロ野球初の三冠王輩出

2011.12.04


駒大から東映へ三沢今朝治【拡大】

 “高校野球のテレビ時代”の幕開けにふさわしい選手だったのかもしれない。甲子園大会がNHKでテレビ放映されるようになったのは、昭和29年春から。そのセンバツ大会で、お茶の間のファンは小さなエースの快投を見ることになる。

 長野県代表、飯田長姫(おさひめ)高の左腕・光沢毅の登録身長は160センチで体重51キロ。実際は157センチだったという。南アルプスの麓からやってきた春の初出場校は、浪華商(現大体大浪商)、高知商、熊本工、小倉高という名門校を撃破。光沢は4試合でわずか1失点で優勝投手となった。今では当たり前になった優勝決定後のグラウンドでのテレビインタビューにも答えた。甲子園で「小さな大投手」と呼ばれた球児は少なくないが、光沢が元祖的な存在だ。

 明大に進んだ光沢は左肩故障でリーグ戦7勝に終わり、地元の社会人・三協精機で外野手に。監督としては第1回の日本選手権で優勝を飾る。NHK高校野球解説者としても熱弁をふるったが、平成元年にゴルフ帰りの交通事故で失明する不運に見舞われた。それでも、ブラインドゴルフ(視覚障害者のゴルフ競技)のプレーヤーとなって大会で優勝。野球のリトルシニアリーグ発展にも尽力した。

 飯田長姫は優勝以降の甲子園出場はないが、長野県が全国に誇る超名門が松商学園(旧松本商)だ。夏の甲子園35回出場は、北海高と並ぶ全国最多。春夏通算50回は4位にランクされる。優勝1回、準優勝3回。日本プロ野球初の三冠王を輩出した。

 中島治康は、昭和3年夏に初の全国制覇に導いたエース。早大から巨人入団。戦前のプロ野球を代表する強打者となった。昭和13年秋に三冠王となるなど、首位打者2回、本塁打王2回、打点王4回で野球殿堂入りした。

 中島を筆頭に、松商学園は多くの名選手を生んだ。昭和15年夏に4強の内野手・土屋亨は、明大を出て主に中日でプレー。引退後は中日新聞記者として活躍した。巨人で2ケタ勝利3回の堀内庄は3回の甲子園出場。1年後輩が木次文夫。早大の強打者として鳴り物入りで巨人に入り、王貞治と一塁のポジションを争った。三沢今朝治は駒大から東映(日本ハム)。敏腕スカウトで鳴らし、球団取締役としてチームの北海道移転に尽力した。54、55年の夏出場のエース・川村一明は、阪急の1位指名を蹴ってプリンスホテルへ。西武では5勝に終わった。

 甲子園ファンの記憶に残る投手が上田佳範だ。平成3年春、チームを63年ぶりに甲子園の決勝へ導いた。相手は大正15年春の決勝と同じ広陵(広島)。9回裏にサヨナラ負けを喫してリベンジはならなかったが、力投は共感を呼んだ。日本ハムで外野手に転向して中日でもプレー。現在は中日コーチで、落合監督が退任しても来季の残留が決まった。高校時代の実績の大きさから、今でも長野球界最高のスターといわれる。

 明治32年創部で甲子園4回出場の長野高(旧長野中、長野北)からは、町田行彦と松橋慶季のバッテリーが出た。町田は国鉄で本塁打王を獲得し、巨人のコーチも務めた。松橋は阪急から1年で国鉄に移籍して、町田と一緒にプレーした。引退後はセ・リーグの審判に転身。大きなおなか、丸い顔に大きな目、判定での大きなジェスチャーで人気があった。

 慶大でスター選手だった捕手の堀場秀孝は、丸子実(現丸子修学館)で甲子園3回出場。プリンスホテルを経て広島、大洋、巨人で活躍した。同じ捕手で後輩の桃井進はロッテでプレーした後、こちらはパ・リーグの審判員になった。

 現役のプロ選手では、何といっても金子千尋。甲子園11回出場で4強1回、8強2回の実績がある長野商の出身だ。自身も平成12年春に出場。トヨタ自動車からオリックス入りし、4年連続2ケタ勝利で不動のエースに成長した。

 飯田長姫高の優勝から57年。以来、長野県勢の全国制覇はない。飯田長姫の校名は、大正10年創立当時の校舎が飯田城跡(別名、長姫城)にあったことに由来する。だが、同校は平成25年に飯田工と統合されて廃校となることが決定。校名も変わる。5年前から新校名を募集しているが、いまだに決まらない。甲子園優勝校の名前が消える…。オールドファンの惜しむ声が高まっている。=敬称略

 

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